サビアンシンボル

牡牛座28度 成熟したロマンスに、胸躍らせる女

 長い間、いまひとつ解釈がうまくできないサビアンは結構あって、なんならネイタルの太陽が牡牛座28度(さらにブラックムーンリリスも0.03差で合)なのですが、これが色々読んでいても釈然としない。

 年を重ねたあとのロマンスに躊躇しつつ期待する、あるいは牡牛座的な所有の世界から双子座的な好奇心の世界への移り変わり、あるいはルディア版の「人間は生物学的な限界を超えて、意識や感情を高めていく能力がある」のような解釈があるらしいけど(それでわかる人もいるのだろうけど)、個人的に納得する感覚がないというか、太陽で表されることが「期待しつつ躊躇する」「限界を超えて高める」って、どの星座や度数でも表現できそうな感じがするので……(少なくとも牡牛座に限られる内容ではない)。

 というわけなのですが、最近少し納得できる解釈を思いついたので、合っているかは不明ですが一応書いてみます。

 とりあえず、この題をみたときに思い浮かんだのが『更級日記』の菅原孝標女だったので、それに絡めた解釈になります。『更級日記』は前半の菅原孝標女の物語耽溺がよく「平安時代のオタク女子」みたいにネタにされるのですが、後半にも実はひとつ大きな見せ場があって、それが「春秋のさだめ」です。

 小さいころに上総(かずさ)の国で母や姉の話す「物語」について細切れに聞いては、いつかはそれをすべてつなげて読んでみたいと思っていた頃、後に上京が叶いおばから物語を多く送られて昼も夜も耽読していた10代後半~20代中盤(この辺りまではよく知られている上に、読んでいてすごく面白い)を経て、30代からのやや遅めな宮仕え、日々の暮らしなどで次第に「物語のことも、うち絶え忘れられて、物まめやかなるさまに、心もなりはててぞ」、それでも「まめまめしく(現実的に)過ぐすとならば、さてもありはてず(そうなり切ってしまうわけでもない)」ような毎日になる。

 物語世界のような楽しみと喜び、優雅さに満ちた宮仕えや生活を想像していたのに、それとあまりに違う日々を送る中で、ひときわ異彩を帯びて輝いているのが「春秋のさだめ」です。このころ作者はもう結婚していたのですが、ある夜に仲間の女房と一緒にいるところを、たまたまやってきた源資通(みなもとのすけみち)と会話するという一幕で、これが『更級日記』後半はこれがないとあまりにも寂寞としていたと思います。

  春秋のさだめ
上達部、殿上人などに対面する人は定まりたるようなれば、初々しき里人(宮仕えに不慣れな人)は、有り無しをだに知らるべきにもあらぬに、十月一日ころのいと暗き夜、不断経に声よき人々よむ程なりとて、そなた(それに)近き戸口に、(私と仲間のに女房)二人ばかり立出でて聞きつつ、物語してより臥してあるに、参りたる人(源資通)のあるを、
「逃げ入りて、局なる人々(高い位の女房を)呼びあげなどせむも見苦し。さはれ、ただ折りからこそ、かくてただ(こんな時だから、こんな時だから)」

と言ふいま一人のあれば、傍にて聞きゐたるに、おとなしく静やかなる気配にて物などいふ、口をしからざなり(悪くはない)。

(資通)「いま一人は」

など問ひて、世の常のうちつけ(突然)の懸想びて(がつがつしたこと)なども言ひなさず、世の中のあはれなる事どもなど、こまやかに言ひ出でて、(そんな話をされては)さすがに厳しう引き入りがたい節々ありて、我も人も答へなどするを、

「まだ知らぬ人のありける(こんな話ができる人もいたなんて)」

などめづらしがりて、頓に立つべくもあらぬほど、星の光だに見えず暗きに、うちしぐれつつ(ざらざらと雨がふりつつ)、木の葉にかかる音のをかしきを、

「中々に艶(えむ)にをかしき夜かな。月のくまなく明からむも、はしたなく眩ゆかりぬべかりけり(月明かりで姿が見えてしまうと、身を隠すところがないですが)」

春秋のことなどいひて、

「時にしたがひ見ることには、春霞おもしろく、空ものどかに霞み、月の面もいと明かうもあらず、遠く流るるやうに見えたるに、琵琶の風香調ゆるるかに弾き鳴らしたる、いといみじく(美しく)聞ゆるに、又、秋になりて、月いみじう明きに、空は霧りわたりたれど、手にとるばかりさやかに澄みわたりたるに、風の音、虫の声、とり集めたる心地するに、箏の琴かき鳴らされたる、横笛の吹きすまされたるは、何ぞの春とおぼゆかし(春のことを忘れてしまうほどで)。又、然かと思へば、冬の夜の、空さへ冴えわたりいみじきに、雪の降りつもり光りあひたるに、篳篥(ひちりき)のわななき(震えるように)出でたるは、春秋も皆忘れぬかし(忘れてしまいたくなる)」

と言ひつづけて、

「いづれにか御心とどまる」

と問ふに、(仲間の女房は)秋の夜に心をよせて答へ給ふを、さのみ(そればっかり)同じ様には云はじ(云いたくはない)とて、

  あさ緑花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月

と答へたれば、(資通)返す返すうち誦(ずん)じて、

「さは(それでは)、秋の夜はおぼし捨てつるななりな(秋の夜への思いは捨ててしまったのですね)。

  今宵より後の命のもしもあらば さは春の夜をかたみと思はむ

 (私も春の夜を形見に思って生きていくのですが)

といふに、秋に心を寄せたる人、

  人はみな春に心をよせつめり われのみや見む秋の夜の月

とあるに、(資通)いみじう興じ、思ひわづらひたる気色にて、

「唐土などにも、昔より春秋のさだめは、えし侍らざなるを(唐などにも春秋の定めは出来なかったのに)、この此う思し分かせ給ひけむ御心ども、おもふに、由(ゆえ)侍らむかし。我が心の靡き、その折りのあはれともをかしとも思ふことのある時、やがてその折りの空のけしきも、月も花も、心に染めらるるにこそあべかめれ。

 春秋を識らせ給ひけむことの節なむ、いみじう承らまほしき(春秋をそれぞれ選んだ理由こそ、聞いてみたいものですが)。冬の夜の月は昔より凄まじき(冷えすぎて寂しい)ものの例(ため)しに引かれて侍りけるに、またいと寒くなどして、殊に見られざりしを(寒すぎるため、わざわざ見られていなかったのを、わたし資通が)斎宮の御裳着の勅使にて下りしに、暁に上らむ(帰京する)とて、日ごろ降り積みたる雪に、月のいと明きに、旅の空とさへ思へば、心細くおぼゆるに、まかり申しにまいりたれば(帰りの挨拶に上がってみれば)、余の所にも似ず、思ひなしさへけ恐ろしきに、(私を)然べき所に召して、円融院の御世よりまいりたりける人の(五代前の世から居た女官の)、いといみじく神さび古めいたる気配の、いと由深く(思いの由るところ深く)、昔の古事ども言ひいで、うち泣きなどして、よう調べたる琵琶の御琴をさし出でられたりしは、この世のことともおぼえず、夜の明けなむも惜しう、京のことも思ひ絶えぬばかり思え侍りしよりなむ、冬の夜の雪降れる夜は、思ひ知られて、火桶などを抱きても、必ず出で居てなむ見られ侍る。お前たちも、必ず然(そう)思す故侍らむかし。さらば、今宵よりは、暗き闇の夜の、時雨うちせむは、又心にしみ侍りなむかし。斎宮の雪の夜に劣るべき心地もせずなむ」

などいひて、別れにし後は、誰と知られじ(知り得ない)と思ひしを、又の(次の)年の八月に、(孝標女が仕えていた祐子内親王も)内へ入らせ給ふに(宮中に行かれたので)、夜もすがら殿上にて御遊びありけるに、この人(資通)の侍ひけるも知らず、その夜は下(一段低い部屋)に明かして、細殿の遺戸をおしあけて見いだしたれば(外を見ていると)、暁方の月の、有るか無きかにをかしきを見るに、沓(くつ)の声聞えて、読経などする人あり。読経の人は、この遺戸口に立ち止まりて、ものなどいふに、答へたれば、ふと思ひ出でて、

「時雨の夜こそ、片時忘れず、恋しく侍れ」

といふに、こと長う答ふべきほどならねば(ゆっくりと答えられるときでもないので)、

  なにさまで思ひいでけむなほざりの 木の葉にかけし時雨ばかりを

(どうしてそこまで、その場限りの木葉に掛かっていた時雨を思い出されているのですか)

とも云ひやらぬを(云い終わらないうちに)、人々また来あへば、やがて滑り入りて、その夜さり罷でにしかば(宮中から一時出てしまったので)、もろともなりし人(あの夜に一緒だった女房を)訪ねて、返ししたり(資通も返歌した)なども、後にぞ聞く。

(一緒だった女房から、資通より)「ありし時雨の様ならむに、いかで琵琶の音おぼゆるかぎり弾きて聞かせむ、となむある」

と聞くに、ゆかしくて、我もさるべき折りを待つに、さらになし。

 春ごろ、のどやかなる夕つ方、(資通が)参りたるなりと聞きて、その夜もろともなりし人とゐざり出づるに、外に人々参り、内にも例(いつも)の人々あれば、出でさいて入りぬ(出そうになったけど引っ込んでしまった)。あの人も然や思ひけむ、しめやかなる夕暮をおしはかりて参りたりけるに、騒がしかりければ罷づめり。

  加島みて鳴戸の浦に漕がれ出づる 心は得きや磯のあま人

(神崎川の加島の中洲は繁華ですね。それを経て鳴戸の浦まで漕ぎ出だしていく、そんな騒ぐ気持ちを分かっているでしょうけど、磯からみていた海人)

とばかりにて(私は詠んで)、已みにけり。あの人柄も、いとすくよかに、世の常ならぬ人にて、その人は、彼の人はなども訪ね問わで過ぎぬ(あの人がどうなった、この人がどうなったなど穿鑿はせず終わる)。

 これはふつうに読んでも興味深い一段だけど、個人的に今回の記事をあわせて読んでみて惹かれたのは、ひととおり一緒にいた女房と作者が春秋の好みを詠み終わったあとの、資通の

春秋のどちらを好みと思ったか、その理由こそもっと色々聞いてみたいことですが、私にも冬の夜の月というのが、他の人のいうような冷えすぎて寂しいものではなく、伊勢に下った雪の日の、あの年老いた女官が昔のことなどを語っているときの、ぞっとするほど透きとおって明るい夜のことが思い出されるのです。そんなふうに、今夜のこともきっと暗い夜の時雨を聞く日には、こんな話をした一幕があったと思い出すのでしょうか。

という台詞で、それはたぶん作者も同じく感じていたことだと思う。もっとも、作者も資通も一緒にいた女房もそれをきっかけに深く拗れたりする関係にはならないで、そういう会話を楽しんだという思いだけで終わるのだけど、いままで溜まってきた感覚の記憶(春秋のどちらが好きか思った理由)に今夜のことも新しく重なっていくことを描いている。

 成熟したロマンスに胸躍らせる女のサビアンは、原文だと「A women pursued by mature romance」で感情的には落ち着いたロマンスだけど、それを深く楽しむみたいな意味だとすると、もう今までもかなり色々な記憶がたまっているし、それなりに自分なりの感覚も練り上げられているけど、今日のことはきっとこれからの感覚や好き嫌いを一部塗り替えるような出来事になるという思いをするサビアンなのではないか、と思う。

 牡牛座についてよく云われるイメージとしては、好き嫌いの感覚が練り上げられている、好みが固まっている、好きなものを繰り返すなどがあるけど、双子座の多方面な興味との間にある度数として牡牛座28度を眺めれば、このような形で好きなものが僅かに広がったり増えていく様子がよくわかる。

 牡牛座の感覚って、よくも悪くもやや閉鎖的なところがあるので、ときおり外からこういう感じで雑多なものを入れて、再び自分の記憶や感覚の中で洗練したり深めるようにして物事を感じるというのがこの度数の意味だとしたら、自分のネイタルの太陽とそれに関わるアスペクトを読んでいくとこんな感じになる。

 いままでは太陽はじっくりと整うまで動きたがらない、いままでの部屋で躊躇するみたいな意味だと思っていたけど、それと関わる天体(特にトランスサタニアンと月のメディエーション)を書いてみるとこれです(どうでもいいけど、初めて自分のホロスコープを出した時って、誰でもこんなものかと思っていたけど、今から思うと軽く狂気を感じるというか、トランスサタニアンの悪巫山戯……)

月:山羊座29度 お茶の葉を読んでいる女
太陽:牡牛座28度 成熟したロマンスに、胸躍らせる女
海王星:山羊座26度 水の妖精
天王星:水瓶座1度 古いレンガ造りの伝道所
冥王星:蠍座30度 ハロウィンの悪ふざけ

 冥王星については「12の月の永劫回帰」という記事に書いたけど、これが太陽のサビアンとオポジションということ自体、冥王星は「世界は何度でも混沌のような深い感情を経て、また奇麗なものを作り出し、それが古くなるとまた混沌に還るということを知れ」と強いてきて、太陽はいままで作り上げてきた部屋――きっとそこには時間を経てひととおりの物が揃っている――をまた少しずつ外から新しいものを入れて、好みで選り分けながら、また一つの感覚に収斂していく牡牛座という対比だったのかもしれない。「12の月の~」を書いたあとに感じたことなのですが。

 月のサビアンは、ティーカップの底に残ったお茶の葉の形からさまざまなことを読み取るように、現実世界の微細な特徴から裏にある水瓶座的な普遍的なことを探るというサビアンなので、あくまで目に見える特徴などを基にするのは山羊座的だけど、興味の方向は水瓶っぽいのはこの記事あたりによく現れている(なんなら、日常生活のほとんどはこれだけで出来ている感もある)。

 海王星:水の妖精は同じく大きい山羊座の岩山のような堅牢さの後ろに、その山を生かしている水の霊性を感じて、そういうものこそ本質であり山を生かしているという幻想でしょう。天王星は、カリフォルニアの古い伝道所のように新しい土地で、本国とは離れて時に自由なやり方で教えを説くように、新しいことをしていきたいという度数です(もっとも、アウトオブサインで山羊座月に合なので、その新しさは月に吸収されてあまり奇矯なものにはなってないと信じたいが。ちなみにカリフォルニアの古い伝道所は、のちに先住民の文化と融合してウルトラバロック様式のような、スペイン本国にもない美術も生んでいる)。冥王星とも60度なので、混沌からさまざまなものが生まれるという逆らえない真理も認めてはいるという感覚ですね、トラインの太陽ほどは馴染まないですが。

 このように読んでいくと、月は完成した古いものの裏にある本質を探る気持ち、太陽はその閉じた世界にときおり別のものが流れ込むことを楽しむけど、じっくり吸収する時間も欲しいという意味にもなります。これだけ意味がまとまっていると読みやすいはずなのに、いままで何となく太陽のサビアンが上手く感じられず、全然読めなかったです。(自分のことなのに)

 いままでは牡牛座的に質感を捉えるのが、月・天王星・海王星の見えない感情や論理にも向いているくらいの意味だと思っていたけど、このブログをある程度書いていて気づいたのですが、冥王星とのオポジションを合わせると、人間は渾沌とどのように付き合ってきたかなんだよね。渾沌と向き合って、少しずつ自らの中にそれを吸い込むときの、人の精神はどのような形になるか、その後どのようなものを生み出すか、みたいな。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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