サビアンシンボル

水瓶座27度 スミレで満たされた古代の陶器

 サビアンシンボルから連想する記事を書いてみるシリーズ、第二回は水瓶座27度です。ミケランジェロの記事で「この陶器は神々に捧げる花を盛った器」みたいな解釈をしたので、それに合わせて書いていきます。

 この陶器は、古代から続いてきたもの、水瓶座の普遍性のことで、それにスミレを飾るので普遍的な物の中に感情をさらりと入れて表現する、その表現は穏やかで古い器に新しい花を飾ったようになると読んでいたのですが、この陶器はきっと古代にも普遍的なものに使われたとすれば、それは神々を祀るときだったのかも、という想像です。

 神々を花で祀る詩といえば『楚辞』の九歌・礼魂を思い出すのですが、

  九歌・礼魂
成禮兮會鼓、
傳芭兮代舞。
姱女倡兮容與。
春蘭兮秋菊、
長無絶兮終古。

礼を成して鼓に会(あわ)せ、
芭(花)を伝えて代(入れかわり)舞う。
姱(ゆらりとした)女の倡(謡い)は容與(悠然として)
春の蘭に 秋の菊、
長く絶えずに終古(いつまでもつづく)。

 この「いつまでもつづく」感じが水瓶座の好む普遍的で、いつでも通じる本質のような意味だとしたら、この花をもう一度陶器に飾るのが水瓶座27度なのですが、今度はこの陶器について思わせる作品を。

  小瓶(おがめ)の称言(たたえごと)
 さねさし、相模の国、鳥舟、足柄の山の上つ世に、大きなる杉こそ多(さは)に立てりけれ。とりよろふ萬づの言の葉を集むてふ書(ふみ)に、「足がり山の杉」と詠みにし歌は、假(いつわ)りなる事と云えども、後の世に此箱根の峰なる湖(うみ)の底より潜(かづ)きも出で、御谷の底より掘りも得るなる杉し絶えせず有りけり。また同じ歌に足柄山に舟木伐り、あきなの山に曳く舟」など云ひ、また上つ世なる軽の明宮(あかりのみや)の大御時、伊豆の国に仰せて大船を奉らせ給ひ、また奈良の御門の大御時の歌に「伊豆手舟(いづたぶね)」と詠める多かなり。伊豆と足柄は、交わりて区別無きが如し。その舟は昔も今も必ず杉もて造れるなれば、此の山並(やまなみ)に彼の木の多(さは)なりしを知るべし。
 今の平の都(平安京)の新ら御代の十まり(余り)二年と云ふに、駿河なる富士の高嶺、火の香具土(かぐつち)の荒びませるに、山燃え巌飛びて、足柄の関路の絶えにければ、同じ郡の此の箱根路をなん初めて墾(は)らせ給ひける。そは程なく本つ関路に復(かえ)されたれども、箱根路も猶ぞ絶えせざりけん、薪樵(たきぎこ)る鎌倉の城(き)の栄えつる時も此の大路の事見えたり。
 斯(か)く有りて今の武蔵の大城(おおき)に天の下の大政申しませるより此方(こなた)は、駅伝(うまやづた)ひの大路と成りて、駒の爪の立つる極み、舟の舳の泊(は)つる限り、高き賤しき隙もなく往き交へば、峰の上に関を移し、駅をも立てさせ給ひき。影面(かげつおも)、背面(せつおも)の道の辺り辺り、民の伴(とも)多に住みなしつつ、自ら山縣の業とて、筥形(はこかた)、抔形(つきかた)、種々(くさぐさ)の色の物を木もて造り出でて、行き交ふ人に商へり。其の造れる木の中にも、彼の埋もれにたる杉を、神代の杉と名づけ、我れも衒ひ人も愛づめり。

 其れが中に水口(みなくち)の何がし(某)てふ人あり。正徳の二年と云ふ年、此の山の背面(せつおも)なる山懐(やまふところ)なる世爾期久(せにごく)と云ふなる所に、大きなる杉の倒れ埋れて有る事を知りて、百の人を集(つど)へ、八十の心を合せて掘り得にたり。太き事十抱き餘り二抱(むた)き、長き事十杖餘り七杖なん有りける。其が下にも猶も横たはりたるが有る事を知れど、千尋の下のすべ無かりしを、新玉の年を積み、等閑(なま)あらじに掘りに掘り、身もたな知らず労(いたず)きて、遂になん引こずり出でたりける。是れが太さも十抱きばかりなん有りける。然かして其れ引き上ぐる時、根の屈(かが)まれる下より、怪しき小瓶(おがめ)を一つ取り出でたり。丈は九寸餘り、周りは十寸餘り五寸ばかり、上広く下窄(すぼ)く、色は赤黒にて、外の様なだらかにも有らず。唯だ打焼きたるが堅くして損なへること無かりき。此はしも何時の世如何と有るべき物ぞと、行き交ふ四方の国人に問ひさくれど、誰かは知らん。いでや此山の杉の、奈良の宮の大御時までは聞えたる事、既に云へり。

 平の宮より此方には、記せる書(ふみ)も無く、伝へたる言もなし。今はた古の杉の立てるも見えざるを思へば、多くは早き世に取り尽し、残るは山裂け岩崩(く)えて埋れにたるなり。然かれば其の埋れたるよりは、凡そ千年もて計るべし。其先、荒金(あらがね)の下つ岩根に一つ二葉(ふたば)の生ひ出でしより、天の原雲を凌ぐまで栄え立ちにけん年も、千年を挙げて数へつべし。抑(そもそ)も大倭橿原の宮に初国(はつくに)知らししは、今より二千まり(餘り)五百年ばかり先つ事と云ふめれば、殆其程の楉(しもと:若い枝)ともせん。其が生ひぬる土の下に有りけん物を、正に神代の物と称(たた)ふとも、由無きにあらじ。

 故、其主、則ち彼の杉もて筥(はこ)を作り、此の小瓶を籠めて、いとも畏(かしこ)き皇神の賜物となん祝ひ奉りにける。此の故由理(ことわら)ん事を、己れに乞ふに、事の心は分きも分かずも、斯くのみ神さびたる物を喜こぼへるまにまに、迂疎(おそ)き心をも忘れて記す。

 漢字の使い方がやや独特ですが、大事なところだけまとめると、足柄山の杉はおよそ千年前まで茂っていて、それが倒れたのを掘り返したら根元からとても古い陶器が出てきた。その陶器は何時のものか知らないけれど、今から千年前に生えていた杉は、きっと大きくなるにも千年以上はかかっているから、その陶器が埋められたのは二千年ほど前のことで、まだ神々の世だった頃なのかもしれない。それほど神さびたものを得て、祀るために書かれたのがこの文です、という意味になります。

 古くはその陶器は何に使われたかは分からないけど、当時もきっと大事に使われていた(もしかすると、杉の木を祀った陶器だったのかもしれない)ものを再び祀る、そのような感情はもしかすると水瓶座27度 スミレで満たされた古代の陶器を知る前にも、この作品を読んだときに知っていたのかもしれないという記事です。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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