美術

ミケランジェロ・ブオナローティ 天地紛糾、人神契闊

 今までは近代以降の人を読んできましたが、今回は前近代のミケランジェロを読んでいきます。今までいろいろ読んできたけど、この人はちょっと格が違います(トランスサタニアンは現代からみて感じる魅力を知るために読んでいきます)

 ぐったりと倒れ込むような、雄偉なような重いホロスコープで、上にトランスサタニアン、下に個人天体で、天と地の離れ阻(へだ)たるような姿というか、窿々とした裸体像を思わせる形なのに、その中は霈々として流れるように不安定で、水が狭いところに拗(ねじ)れながら落ちていく雰囲気があり、マニエリスムの始まりのような混沌とした感じです。

 というわけで、今回はミケランジェロとマニエリスムの始まりについて、若桑みどり『マニエリスム芸術論』を参考にしながら占星術でみていきます(引用はすべて『マニエリスム芸術論』で、随時略してますが出来るだけ頁数や章を書きます)

 ちなみにマニエリスムについて『マニエリスム芸術論』の表現を借りて書いておくと、マニエリスムとは「マニエラ(手法)」を重んじる16世紀ヨーロッパ(特にイタリア)の美術様式で、その手法の本質は「あらゆる関節を、できるだけ対立するようなやり方で曲げるという“蛇状の人体”(196頁)」にあり、ミケランジェロの作品は「ダヴィデ・バッカスをのぞけば、全部が全部、不自然なほど体をよじったり、かがんだり、おしつぶされているものばかりで、一見して、どのような外側の枠にも規制されていない場合であっても、つねに、まるで目に見えない力におしつけられているかのようにゆがんでいる。

 実際には、人体はゆがみ、ちぢめばちぢむほど、それが逆に伸びきった時の力を想わせて、そのまわりの空間への統制力が増加する。また逆に、巨大に作られれば作られるほど、無力感が支配するものである(196頁)」ということで、その例としてミケランジェロ「メディチ家礼拝堂 ヌムール公ジュリアーノ(中央)・夜(左)・昼(右)」を載せておきます。

 この「力ない肉体のあまりの大きさは、古典主義的なバランスの感覚からいえば、かれらは石棺上のオーナメントであるにしてはあまりにも大きすぎて、みっともなくずり落ちそう(153頁)」で、蛇が胴中に傷を受けたように体をねじっている様子でなんとなく感じてもらえれば十分なのですが、それをホロスコープで探すと太陽・火星に向かうトランスサタニアン・土星になる。

 まずは特に重そうな太陽・冥王星から。

冥王星:乙女座21度 少女のバスケットボールチーム
太陽:魚座25度 聖職の浄化

 このアスペクトを読むには、マニエリスムが生まれた背景を少し書くことになるので、すごく端折っていきます。

 中世(~14世紀)以来の宗教中心の美術は、14~15世紀に貿易などで財産を得たイタリアの市民層の自治によって、都市の人々が公共的に楽しめる普遍性や安定した規範を帯びることでルネサンス美術が生まれるのですが、15世紀終わりになるとイタリアの都市は周辺の勢力に利用されたり搔き乱されて互いに争うことになり、その安定から混乱への移り変わりを経たのはミケランジェロ、ティツィアーノ(前マニエリスム世代)、生まれたときから変動の中に生きていた不安感のある作風のポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノ(マニエリスム第一世代)、不安な宮廷の中で晦渋にして優麗な貴族的作風の絵を描いたヴァザーリ、ブロンズィーノ(マニエリスム第二世代)、その不安感を宗教的な狂熱と激しさに重ねて描いたティントレット、エル・グレコ(マニエリスム第三世代)などがいて、ミケランジェロは特にルネサンス風の調和と安定の感性(ダヴィデ像など)からマニエリスムの不安と危苦の感性に変わっていく途中でマニエリスムの基本になる「蛇状の人体」を生み出してます(序章を要約して引用)

 ミケランジェロの凄まじさは、人物が皆闘いの中に置かれて、あるいはその奮い立つ様の雄渾さ(ダヴィデ像は石を隠し持って投げつけたり引っ掻くつもりの像)、或いはその傷つき敗れた姿(サン・ピエトロのピエタ、メディチ家廟のぐったりとうなだれた感じ)、あるいは激しく紛糾(もつ)れあう人々の群像(カッシーナの戦い、最後の審判の茫々墋黷)のように形を変えて彫られたり描かれることにある。

 というわけで、太陽のサビアン:聖職の浄化について書いておくと、マニエリスム期の蛇状人体は実は宗教的・倫理的な葛藤、あるいは拗(ねじ)れ、闘いによって生まれていて、宗教的・倫理的な葛藤(内面の葛藤)は中世の宗教美術で美徳(謙譲・節度・慈悲・寛容など)と悪徳(放漫・放恣・冷酷・吝嗇など)の抗争という擬人化された姿で描かれ、中世初期は

 混乱におちいったローマの巨大な体質は、うちつづく天災や、疫病や、戦争や暗殺や軍隊の専横やバルバロイの侵入などによって危機に瀕していた古代社会の人々の間に、もはや現世を快楽とみるギリシャ神がなぐさめをも共感をもあたえなくなっていたことと、すでにストア派のなかでいちじるしくなっていた、現世的関心を放棄し、せめて倫理的生のうちに精神の安定を見出そうとする志向とが根づよく張っていたためとで、キリスト教の彼岸性が慈雨のような慰めを人々の心にもたらし(212頁)
 自己の精神の内面世界に目をむけるということは、どのような形であれその葛藤に気付くことで、初期の教父たちの告白、アウグスティヌスの「わたしは自分で自分というもののすべてが理解できない」、あるいは娼婦たちと縁を切ろうとする己れとこれをひきとめる己れ自身との葛藤(213頁)

があったけど、中世が安定すると

 このような中世の倫理的な秩序におかれた徳と罪とは、けっして、真にサイコロジカルな葛藤そのものを演じてはいない。彼らのたたかいの勝利者はもうきまっているからで(208頁)、それらがキリスト教の秩序の下で勝利を確信して安住しているかぎりは、事実上その形骸が生きながらえていたにすぎず、その葛藤の精神はすでに死んでいたのだ(214頁)

というふうに変わっていき、さらにマニエリスム期に再び不安と不快が蘇ってくると

 この精神的(宗教的)危機であった十六世紀に、安定した中世にあって勝利が予定されていた「美徳」たちの寓意像たちが、ふたたび自分と同じほどつよくなって自分に歯向かってくる「罪」たちとたたかわねばならない時がふたたび訪れ(217頁)

(たとえば、これはミケランジェロ「抵抗する奴隷」)この筋骨たくましい人物は、一見何ひとつ目に見えた絆もなく、またどのような絆によってもくくりつけられないほどの強壮さをもっているようにも見えるのに勝手に身をよじって苦しんでいる(256頁)

 ミケランジェロは肉体を魂の牢獄だと考えていた。悲哀は、肉につつまれているかぎり、生きているかぎり否応なしに人を圧しつけて、決して解放することはないもので、同時に、人間には、その本来あるべき自由な境遇から流罪にあっているという、流亡の、疎外の想いが根底につきまとって、このような精神の状況の中では、解放ということは霊が肉をはがれること、つまり死にある(261頁)

という苦しみや闘い、悶え、愁い、怒り、悪徳などを蛇状の人体で再び描いていて、冥王星:少女のバスケットボールチームは乙女座の現実世界で、人間の動きの激しさとその中での向上を求めること、それが太陽:聖職の浄化に圧をかけているので、宗教や精神世界で旧くなったものを壊して腐りかけたものを除かせる(25度はサインの拡大解釈っぽいので、魚座にしては勇捷な感じがある)ことになる。

 さらに太陽には火星を通してトランスサタニアン・土星が流れて来るので、

火星:魚座19度 弟子を指導する巨匠
土星:蟹座17度 幼芽は知識と生命に成長する
天王星:蠍座15度 五つの砂山のまわりで遊ぶ子供たち
海王星:蠍座23度 妖精に変容したウサギ

火星は芸術を継いでいくこと、それが冥王星の影に壓されていよいよ燃えること闇の中にある火のようで、身近に触れられるもの(3室)はぼんやりと靄や霧に包まれていて(魚座)、さらにざわめきや知り得ない動きでざらざらとする人の世の闇が覆うようにある(乙女座冥王星)

 土星の幼芽は微生物や菌のことで、ふつうは深い思索などを持たない生物がそのような知性を育てていくこと(蟹座第4グループは山羊座っぽくなるので、知性は蟹座らしくないけど、育てるは蟹座らしい)、天王星は砂山を作って遊ぶ子供たちに少しの間だけ深い人間関係や感情のつながりが作られること(蠍座第3グループは深い関係の多彩な模索)、海王星は、サビアンでウサギは繁殖の意で、それが精霊になるので、動物の本能が霊的なものに穏化、深化されることにあって、それぞれが見えないものに救いを求める魚座にトラインなので、今はまだ闇に包まれているけど、微細な菌が広がるように知性を拡げていく蟹座土星、深い光を帯びながら濁りもある戫汨飂涙(ゆらゆらとねじれ合う)の蠍座海王星、同じく生まれては消えていく人間の感情で搔き乱して美しくする綢繆遹皇(きらきらとうるさい)の蠍座天王星という複雑なアスペクトになる。

 もっとも、これだけでも十分にすさまじく重々しいのに、これだけではないのがミケランジェロの魅力で、まだ読んでいない月、水星、金星、キロンと海王星をみていきます。

 まず、キロンと水星・月は合、金星はセクスタイルなので、海王星からスクエアで苦しめられると読んでおくと、海王星は冥王星とあわせて生きていくときに卑俗な感情と高い霊性が混ざり合う巨大な渦巻きで、キロンは本質的に「~ができなくても構わない。私も~はできない」だと思っているので、

キロン:水瓶座27度 スミレで満たされた古代の陶器
月:魚座3度 化石化された森
水星:水瓶座29度 さなぎから出てくる蝶
金星:牡羊座25度 二重の約束

 古い陶器にスミレの花を飾るように、古代以来の在り方でやわらかく気持ちを表現して、水瓶座らしい普遍さに通じていくことができないけど、それでも人は生きさせられ共に苦しむという芸術になる(癒しというより共に苦しむが近い)。その古代以来の普遍的なあり方は、人間のもつ欲求と高い精神性が滑らかにつながるという不思議さ(海王星)と重なるはずなのに、そのような滑らかさと普遍な芸術から自らの作品はあまりにも外れて拗じ曲がり潰れていることを表すのは

おお、泉よ、河よ、わたしにかえしておくれ
そこに流れる波はお前たちのではなくわたしの涙だから
こんなにもあふれ、さかまき、流れるのはおまえたちの常のさがではないのだから

わたしの嘆きでおまえたちをたえまなしにみたさなかったら
泉よ、河よ、おまえたちはとうにかれているだろうに
涙はあまりにも愛したこの心の熱を冷やしてくれる
わたしの望むものは死と、苦しみ
この望みがわたしを支えわたしを死から守っている
なぜなら死はそれを愛するものをそこないはしないから(どちらもミケランジェロの詩、153頁)

の大塊の我を労するに生を以てするような嘆きで、

 ミケランジェロが数々の懊悩のはてに、おのずから探し得たひとつの答えが、ある美しい詩に示されている。それは次のようなものである。

おんみは死を死んでしまい、神となった
おんみはすでに死に、死の懊悩からときはなたれた
もはや生を変えることもなく望みを変えることもない
「運」も「時」もおんみの入口に立ち
もはやおんみを脅やかしはしない
地上ではこの「運」と「時」とがわれらに、うたがわしい幸いとたしかな苦しみをくれるのに
……
おんみの輝きは夜もおとろえず
いかほど明るくとも昼間さらにかがやきをますこともない
たとえ日の光がわれらの熱をあおろうとも
わがしたわしき父よ、わたしの死と
あなたの死は同じものではない
この世を救いたもうただひとつの場所
おんみの「恵み」をのみわたしは慕う

 これによると、いささかわかりにくいとはいえ、「時」や「死」や「運」を対比させ、「死」も「時」も何人も犯すことのできぬものとして、すべては一度死なねばならぬことをかたっているように思われるが、この「死」さえもこえるものが「神」である。この「おんみの死とわたしの死は同じものではない」とは、キリストが、死をさらに死ぬ、すなわち真に天上的な存在になったということ、このような「希望」は、キリスト者にあっては、「最終の時」における霊魂の救済への希求となってあらわれるものだ。

 不死への「希望」は絵の中でもさまざまなかたちをしている。虚無に抗してたえまなしに生み続ける創造の営みは、さまざまな変身のかたちをもっている。再創造に関与していないかぎり、ひとは虚無のなかにすむ。それが肉のかたちをとっていようと観念的なかたちをとっていようと、愛は、もっとも創造力に富むゆえに、虚無をもたらす時間性を克服する力をもっていよう。だがそれは、一身のはかなさを埋めてくれることはできない。人が生存中に得られるのは希望にすぎず、希望とは、時間性のなかにおぼろに見られた永遠性、あるいは、各モメントに闘う無と有とのせめぎあいのなかに、ふと感じられる歓喜の一瞬の中で感じられる永遠性の香りにすぎぬものであろう。

 それゆえ十六世紀の二大対立ジャンルというべき、あけすけなエロティシズムさえもった「ヴィナス」のたぐいの、もっとも「異教的」なジャンルと、「殉教画」をじつは根底において同じ精神的土台の上につかまえることができる。この時代には、人はふたつの方法で「永遠」を望むことができた。「愛」のなかに滅びることは、肉のかたちにおいてであろうと、霊のかたちにおいてであろうと、くずれやすくなった生存を虚無から救うものと見えたにちがいない(163~165頁)

 この二つの愛を並べて描いたのがティツィアーノ「聖愛と俗愛」で「この絵の中では、左側にいる着飾った婦人が地上の美と地上の愛の擬人像で、右にいる、たいそう彼女とよく似た裸体の女性が、天上の、永遠の、宇宙的な美神(70頁)」とされ、ミケランジェロになると現世を快楽とみるギリシャ以来の異教の神々(ヴィナスなど)を祀る古代、天上の神にすべては結ばれていた中世、二つの愛が並んでみずからの卑小な感情も神の愛と通じるものがあると思えたルネサンスの何れとも異なり、それらの普遍的なものが通っていた芸術からみずからは外れていると感じることが、この海王星:妖精に変化するウサギの姮娥の如き奔逸さを疎ましく、煩わしく感じてながら、労されることを知っているキロン:スミレで満たされた古代の陶器なのだと思う(きっと、この陶器は神々への捧げる花に違いない)

 水星・月はそのキロンと合なので、水星はさなぎから出てくる蝶のように古い縛りを離れるために知性を用い、金星:二重の約束は精神と物質の二つの面で出来うる限りのことを燃やし尽くして生きていく激しい美しさとして水星を支えるのに、月は古い森が石化して文化や古典が溜め込まれた落ち着きに溶け込みたい(アウトオブサインなので、水瓶座の抜け出すことより、魚座の溶け込むになる)、それはサインだけみれば却って蠍座海王星とつながりやすいゆえに連蜷(ぐちゃぐちゃ)と拗れている。

 その反覆して盤坳(めぐりつぶれる)ことを強く感じさせるのは「最後の審判」で、

 そこでは、再生したキリストが、すべてのものに打ち克って、勝利するユピテル神のようにあらわされている。
 そこではすべての死者がよみがえり、正しい者はその無実の罪をぬぐわれて天にのぼり、いつわったものはその仮面を永久にはがれて地獄へおとされる。「やがて、時が真理をあきらかにするだろう!」という、あの叫びが全土をおおっている。罪なくして罪におとされ、あやまった処遇に泣き、愛し合いながらひきさかれたものはすべて清められ、義化され、相抱き合う。一見したところきわめて混沌とした渦巻きがこの大画面をおおているように見える。
 だが、よく見ていると、この絵は、伝統的な中世の概念図と、その図式をかき乱した渦巻きとを重ね合わせた構造から成り立っている(167~168頁)

 ミケランジェロはダンテのように自分を天国につれてゆくことができたであろうか。ここでは「生者と死者」が混在するばかりでなく、「救われるもの」と「呪われたもの」、「天使と悪魔」の区別さえ判然としていない(天使が人を殴り落としたり、人を庇うようにしながら神のほうを不安そうにみる人、地獄の獄卒に捕えられて逃げようと暴れる人、地獄に落とし合う人々、待ちすぎて蒼ざめている人、半ばあきらめている人、地獄で嬉しそうにする者……)。
 少なくとも中世の最終審判図は、正しきさばきの日には我々のあわれな魂も救われるにちがいないという心を鎮める効果をもっていた。だが、この絵の前で我々は、心底から攪乱させられ、この混乱の中で生者と死者、救われるものと、罰せられる者が雑居し、見分けもつかなくなっていることに困惑させられる。この世の終わりにいたるまで、自分自身さえも救いを確信できぬ人物によって描かれた「最後の審判」は、マニエリスム的な寓意の巨大な鏡である(181~182頁)

 ミケランジェロの工房は、ぐったりと大きい石の塊りに囲まれて、駆り立てられるように彫像を作りながらも、その像はどこまでも雄渾にして美しく濡れたような艶めきを帯びたり、流れ合うような姿を取りながらも、古代(あるいは盛期ルネサンス)とはどこか異質の、生きることへのそのままな喜びから崩れ出てしまうようなものが入り、それでいて深い淵に入るような安らぎを感じる感性も残っているという整合しないところはマニエリスム期の始まりを思わせ、海王星・火星・キロンのアスペクトが多いことは「この世の秩序は夢のなか、想像のなか、空想のなか、狂気のなかにあるのです(480頁)」という答えの不確かさ、舟楫の路は窮まって星漢(天の川)にも上り得ない行き詰まった槎なのだ。

 ちなみに重々しさの一つの理由としては、火星とオポジションのリリス:乙女座13度 政治運動を制圧する強い手(制圧する側にいる)によって、抑え込むような存在に憧れつつ、それに近づく為には制圧する手と向かい合うように火星(芸術への情熱)を使うことになり、あの捻じ曲げられ圧し込められた人物像、さらに制圧する手に潰されながらも自らもそれに近付こうとするので、ぐったりと重いのに疲れ切っているだけでなく強さもある雰囲気(メディチ家廟の「昼」は、身体はもたれかかって薾然としているのに、表情は重く睨むような趣きがある)になり、牡羊座の金星はデトリメントなので、あの筋骨窿々として(最後の審判)女性像もどこか瑰麗な感じ(サン・ピエトロのピエタ)になると思う。

 ゆえに張平子「思玄賦」の系(まとめ)に曰く

天長地久歲不留、俟河之清祇懷憂。
願得遠渡以自娛、上下無常窮六區。
超踰騰躍絶世俗、飄颻神舉逞所欲。
天不可階仙夫希、柏舟悄悄吝不飛。
松喬高跱孰能離?結精遠遊使心攜。
回志朅來從玄諆、獲我所求夫何思!

天は長く地は久し、歲は留らずして 河の清(す)むのを俟ちては祇だ憂いを懷く。
願わくは遠く渡るを得て以て自ら娛しみ、上下すること常ならず六つの區を窮め、
超踰騰躍して世俗を絶って、飄颻として神(心)の舉がること欲するものを逞(恣)にしてしまいたい。
天は階(階を掛く)べからず仙は夫れ稀なもの、小さな柏の舟は悄悄(おろおろ)として飛べないのを吝(うら)む。
松喬(の二仙)は高く跱(立)ちて孰(誰)か離(つづ)くのか。精(魂)を結び付け遠遊すれば心は攜(落ち着かず)。
志を回(戻)して朅來(帰り来りて)玄諆(深き教え)に従えば、我(私)の求めるものを獲て何も思うことはないのだが。

 大学院のとき(23歳くらい)に溺れるように読んでいた本(久しぶりに記事を書くために読み返してみたけど、控えめに云って文章がぎちぎちに書かれていて濃鬱な雰囲気が好きだった)

「契闊」は「辛苦する」「共にする」「契はちぎるで合い集まる、濶は濶(ひろ)がるで分れる、疏(うと)い」などと云われるが、おそらく「入り乱れる」の意で、機械・詰屈と近い擬態語です。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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