創作・エッセイ

アブラクサスの神

 前にルシエル先生の鑑定を受けて以来、過去の投稿やブログなどを幾つか読ませていただいたのですが(個人的に一番印象に残っているのは「光明真言で騎馬武者300騎成仏させたことがある」「土地の霊の浮上に光明真言」)、その中ですごく魅力的な記事をみつけたので、それを読んで思ったことなどを書いてみます。

天王星と冥王星

 その記事というのがこちらなのですが、

https://ameblo.jp/social-alchemy/entry-11540279388.html

 これはヘルマン・ヘッセの作品『荒野のおおかみ』について語ったもので、読んだ印象としてはネットに載っている『荒野のおおかみ』の解説として最も惹かれる、あるいは本質的なものを書いている記事だと思っていて、(既に本質は書かれているので)さらに勝手に余談を書かせていただく、という感じです(合っている解釈かは訊く機会がないのでわからないです)。

 まず、ルシエル先生のいう「『荒野のおおかみ』は天王星的物語」というところなのですが、おそらく小市民的な世界=土星、あるいは「時間(土星)をまじめにとらえすぎる」と云うことを作中でゲーテが言っているのも市民的な模範偶像化された世界のことなのかもしれないし、社会の中に個人天体的なもの(月:感情、太陽:生きる目的、水星:思索や知性、金星・火星:性や享楽、それぞれ能動的・受動的の二つがある)を収めている土星的な秩序を越えてくる天王星、という物語なのかと思っています。

 この「時間をまじめにとらえすぎる」というところ、たぶんだけど時間を積み重ねて学問や修練を経て、古典的な伝統をすべて吸収した上で、社会的な模範性をもって常にふるまいつづけ思いつづけられる精神が永遠にそのまま在り続けること、それをゲーテなどの永遠の芸術にみいだすことだと思っているのですが、その土星的な価値観を越えるものを描く作品が『荒野のおおかみ』ということだと思います。

 もしくは、いままで時間を経て出来上がった壁(土星)の中で秩序化されていた価値観があって、そこに天王星的な“秩序外の異物”が流れ込んできたときに、その天王星的なものの後ろには冥王星的なもの(人間や世界の運命を烹る神のようなもの)がいるのかもです。

 その読み方をすると、『荒野のおおかみ』はどこまでも土星的に凝り固まって乾びていた秩序に、天王星的なものが入り込んでくる様子が描かれる作品ということになると思います。

アブラクサスの神

 この天王星の後ろにいる冥王星的なものを、もしかするとルシエル先生は「アブラクサスの神」として書いているのかもしれないです。

 前にこんな記事を書いたけど、そのときの冥王星解釈はかなり不十分なところがあって、冥王星は人間にとっては不条理で盲目的な生きる衝動・得体の知れない生命力のようなものとして見えるかもしれないけど、人間を離れてみればヘルマン・ヘッセの『デミアン』に云う

 ぼくたちの神はアブラクサスと言い、神であり悪魔であり、明るい世界と暗い世界を内に蔵しているのだ。アブラクサスは君の思想や夢のどの一つにだって逆らいはしない。だが、もし君が非のうちどころのない普通のものになったら、アブラクサスは君を捨ててしまう。彼は君を捨てて、彼の思想を煮るべき新しいなべを探がすのだ。(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』第六章)

というけれど、アブラクサスの神は世界そのものを大きな鍋としているなら、たとえ社会的道徳的に非のうちどころのないものになったところで、アブラクサスの造化からはどこまでも逃れ得ない、さらには生きている人間にとっては意味がわからない造物の営為(あるいは何故生まれさせられたのか分からない生)でも、アブラクサスの神にとっては何か一つの流れなのかもしれないし、それが冥王星なのかもとか思ってしまう(間違っているかもですが、あるいはルシエル先生の記事の内容とは外れているかもですが)。

 この投稿にもあるように、アブラクサスの神がさしている将棋の一手で動かされる駒が人間だとしたら“人間としての幸せ”よりもアブラクサスの神が好む一手の為に生きている、という意味で書いているような気がするのですが、アブラクサスの神が何を望んでいるのかは知り得ないまま天王星、海王星、冥王星はいずれのチャートにも現れるとしたら、世界はアブラクサスの神の烹る鍋の中、あるいは将棋の盤の上、もしくは水の中をゆれるガラス玉みたいなものなのかもです。

 そして「人間は、人生の始めの四十年で本文を書き、残りの三十年でそれに注釈を加えていく」というけれど、ヘルマン・ヘッセにとっては43歳のときに『デミアン』で本文が完成して、その後の『荒野のおおかみ』では中年期に長い時間をかけてみずからの中でつくられた土星的なものとそれに属さない天王星的なもの、あるいはみずからの生まれもっていた天王星的なものを土星化させずにどのように天王星的でありつづけさせるか(中年の危機に於けるネイタル天王星とトランジット天王星の180度は、誰もが生まれたときに持っていた天王星的な資質が、時を経ることでむしろ古くなったときに真逆にあるものを取り込んで天王星的な性質を蘇らせられるかという話なのかもです、その歳になってないのでいい加減なことを云い過ぎるのもどうかと思うけど。ちなみに『荒野のおおかみ』が中年の危機を描いた作品ということは、既にルシエル先生が書いています)という注釈に感じます。

 あるいは『ガラス玉演戯』では、土星的な安定性・古い伝統・着実性と、海王星的な現世への諦めと虚無と悲しみの果ての芸術や観照、哀憐がどのように結びつくか、その二つはどのように関わってきたか、その二つを結びつけた人々は学者や芸術家という外称を超えて、その内実はどのような在り方だったのか、という注釈をしていると読めたりしそうです。

 そういう意味でも『デミアン』で書かれたアブラクサスの神を主神とするなら、『荒野のおおかみ』と『ガラス玉演戯』はそれぞれ天王星と土星、海王星と土星を象徴するような脇侍になっている注釈なのかもしれないです(この投稿をもとに勝手に思っていることだけど、天王星は土星的な固着する桎梏から逃れ出る衝動、海王星は土星的な既存構造の奥にあるふわふわと形が無いような霊機神韻、冥王星はそれを造り出している何物かだとしたら、土星はそれらが古くなって落ち着いた色調の世界になったときの外縁or外壁ということだと思っている)

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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