実体験

2023年のソーラーリターンふり返り

 かなり遅れましたが、2023年のソーラーリターンについてふり返りをしていきたいと思います(途中から占いと全く関係ない話が入ってきます)

 チャートはこんな感じ。このチャート、新月図のときにいろいろやばいと云われていた火星・木星・冥王星のアスペクトですね笑。

 Asc蟹座で、ルーラーは月、月天王星合で牡牛座です。月は高揚だけど、天王星がフォールで攪乱してくるという印象(天王星は牡牛座の定着を嫌う)です。

 12室蟹座の金星と牡牛座月がミューチュアル・レセプションなので、12室(隠れ棲むところ)に逃げ返るか、11室(広い場所)に突如として(天王星的に)放り出されるか、という落ち着かなさがあります。

古い天才

 というわけで、細部を読んでいくのですが、サビアンをみていくと

Asc:蟹座26度  贅沢な時間に満足と幸福感を感じながら読書をする人々
MC:牡羊座13度  不発弾
月:牡牛座20度  雲をつくり運び去る風

なんとなく、MCが燻ぶっている感あって不穏だね……(Asc火星合もそういう感じです)。全体図を一言でいうと「爆発未遂」というところです笑。

 太陽と火星・海王星・冥王星が変則クレイドル(冥王星がアウトオブサイン)なので、7室冥王星的なものがある種の異質さをもって入り込んでくるという意味かもです、さらに云えば冥王星は5室ルーラーなので、5室と7室は関わりが深いらしい。

 そして、この問題は相当に根深いもので、2023年のソーラーリターン期間中に片付かなかったので、2024年6月になって書いているのですが。

 この問題の中身としては、個人的にはショーペンハウアー及び王国維的な文学観・美学からの脱却という形であらわれたのですが、ここから占いに全然関係ない話になっていきます。

 このショーペンハウアー・王国維的な文学観というのは、ショーペンハウアーの思想として「人生の不幸とは、意志(生きようとする無条件で無意味な衝動)が周囲との軋轢になって阻害されることによって生まれるので、不幸を減らす為には意志に関わらずに生きれば良い。意志から離れて生きるとは、みずからの生から離れた物事について学術や芸術を通して精神的な感受を楽しむこと」というものが基調にあって、逆に意志に苦しめられて生きるとは際限のない物質的な欲をもつことなので、精神的な楽しみの為には外界と関わりを絶つほど充実した時間を過ごせる故、そのような生き方が理想というのがショーペンハウアーの思想です。

 ショーペンハウアーそのものに触れたのが二十三歳くらいなのですが、ショーペンハウアー的なものに触れたのは、中国の清末民初の文学者 王国維の『人間詞話』(宋詞についての批評。ショーペンハウアー的価値観による文学論が書かれる)に二十一歳のときに出会って衝撃を受けて(もっと実際に近い表現をすれば、かぶれた・染まったというのが近い)、その文学観が「人間は蒼茫飄忽たる宇宙の中に生まれて、その悲しみを詠った詩こそが最高の詩だ」というもので(こういう表現がそのまま原文にあるわけではないけど、しいて一言でいうとこうなると思う)、これに心の底から染まったのですが(特に月海王星合には刺さる)もはや究極の文学観に出会った気持ちになります。

 正直云って、それ以降の大学院での時間だったり、さらにその後に出会った様々なもには、その価値観の注釈だったり枝葉にはなったけど、それを根元から塗りかえることはなかったです。これを安易な崇拝とか思われるのも、まぁ妥当と云えばそうかもですが、何年経っても代わるものが出て来ないということから、やはりそれなりに魅力があるのだと思います。そもそも、本当に薄っぺらくて下らないものなら、枝葉の注釈にすら成れないと思うけど。

(ショーペンハウアー及び王国維の芸術観は、みずからの精神性のみを唯一の源とする作品こそ良いものとしていて、それについては16世紀のマニエリスムや中国文学の典故表現などをみると、みずからの精神に技法的に何かを混ぜるのも可、くらいには許容度もあっていいと思っていて、その中でも様々な折衷形があるという具体的な例も大事だと思うけど、厭世・悲観主義の根柢は変わらないという感じです)

 ところで、ルシエル先生の鑑定を受けた記事でも書いた輸入物を売る云々の話って、この芸術観と矛盾するところが幾つもあって、しかもその鑑定の直前のときに(頭おかしい人間だと思われることを覚悟で書いているのですが)地元の近くの神社で、ふだんは月に一回の参拝のときは無事に過ごせていることへの御礼を伝えるだけで終わらせるのに、そのときは余程思い倦ねていたのか、これからどうやって生きていくかをもし良かったら聞かせてくださいみたいなことを云っていたのですが、その日寝ていたら“そういう悪趣味な服とか売る”的な考えが出てきて、まぁこんな安直なものはただの妄想か思いつきだと片づけていたのですが、鑑定でも同じような話になって、少し真面目に考えたほうがいいのかもしれない……という話があって、これが本当に神意かどうかは別として、鑑定の内容の通りにすることは“人々の低俗な慾望を刺激して金を儲けることにつながるのではないか、外界のことに関わるのは芸術の妨害になるのではないか(世の中と関わることは美学的・思想的に妥協になるのではないか)”という問題が出てくると思います。
(少なくとも王国維・ショーペンハウアー的な美意識・価値観を越えるものを見つけられない中では妥協だと思う)

 それについて、「とりあえずやってみて楽しかったら続ければいい」「昔のトラウマが……」とか「天体配置的にやった方がいい時期」とか「ほどよく月の安心感を保ちながら……して」とかいう話は、人によっては効果があるのかもしれないけれど、自分の例について云えばやや問題にしている場所がずれている気がしています、人によっては良いのかもしれませんが……。たとえば、「昔のトラウマが……」という場合、そのような考えを抱くきっかけになった潜在意識の刷り込みを治したり、あるいは最初は違和感があっても続けてみる等の方法が書かれているけど、この場合は潜在意識の刷り込みを改変した後の在り方が自分の価値観に反している、さらにはその自分の価値観は潜在意識の刷り込みが起こる以前から生まれもっていたものだった場合どうすればいいのか、生まれもった価値観や性質をその場しのぎ的に二つの間を行き来して誤魔化しながら生きていくのが良いのだろうか……みたいな問題だと思う。

 これについて、完全な答えを求めないでその場その場で変化することを許容する、というのが現代の思潮として主流になっている感はあるけれど(その源流的なものは、ヘルマン・ヘッセあたりに出ている気がする。ショーペンハウアー・ニーチェなどの近代の究極性志向を経て生まれてきたという意味ではヘッセのときは新しい答えだったのかもですが)、それをしている自分こそ意志に煩わされている感があります(もっと云えば、ショーペンハウアーを知る以前に逆戻りするしかないのかも。この気持ち悪さと人生の不条理さを描いたのが『ガラス玉演戯』の「懺悔聴聞師」「インドの履歴書」とかだと思う)

 あるいは、太陽と月のバランスが崩れているから……という話も、疲れたら月にもどって少し休んだら太陽の方に……みたいなその場しのぎ的な矛盾を感じながらの忙しない形にするのではなく、その二つをどのように結びつけるかという問題だと思う。もっとも、こういう話は占いで出せる答えではない気もするし、占い師に頼ってどうにかしてもらう話でもないと思うけど。

 というわけで、鑑定を受けた後に、ある意味で八年間 馴染んでいた王国維・ショーペンハウアー的な価値観と、鑑定で聞いた内容をどのように折衷させるか、という問題が出てきた気がするのですが。(こんな無駄話を読む人もいないと思うから書いているのですが、「とりあえずやってみるorその日その日でバランスを取る」という方法ができる人は全然それでいいと思います)

 これは考え方の深浅優劣の問題ではなくて、これから始めるかもしれないことへの反感が精神的にどの部分に根ざしているかの問題だと思っていて、たとえば幼少期の潜在意識の刷り込みに原因があったり、何年も置かれていた環境ゆえにそのような考えに染まってしまった場合は、これから始めることに反感をもっている部分を塗りかえるor棄ててしまえば済むのかもしれないけど、あるいは幾つかの在り方の間でバランスを取るという方法が自分本来の価値観と矛盾しない人はそれでいいのかもしれないけど、これから始めることに生まれついて自分の価値観が逆らっている人は潜在意識や月と太陽のバランス、とりあえずやってみる云々とは全く違う問題がある気がする、という話です。

 今回の例でいうと、外界の欲望を刺激するかもしれないことを仕事にするのは、その仕事のせいで人々を不幸にするのではないか、あるいは外界のことに関わるのは自らの価値観を傷つけるのではないか(それによって自らを意志に近づけて不幸にするのではないか)という話です。ちなみに、天体配置でいうと、上のソーラーリターン図では1室蟹座火星(サビアンシンボルは「アメリカ革命の娘」で、蟹座的な内輪の価値観による結束)と9室魚座海王星、7室水瓶座冥王星がそれを示していて、9室魚座海王星は9室(思想・学術)と魚座海王星(詩)、7室冥王星は外界と関わることへの脅威、あるいは従来の価値観を崩すもの、みたいに思えます。

 さらにいえば、今年の特徴を示すAscのサビアン「贅沢な時間に満足と幸福感を感じながら読書する人々」とMCの「不発弾」の不穏な結びつきがAsc合の火星に出ていると思う。太陽とのアスペクトでいうと、太陽・火星・海王星の価値観を結びつけて、さらに異質な冥王星をどのように変則クレイドルにできるか、という一年なのかもです。

山罍

 まず、太陽(牡牛座28度)と火星・Asc(蟹座的な旧来の内輪の価値観)を結びつけるものは案外簡単に見つかったのですが、とりあえずそれについて。

 そもそも、ショーペンハウアーの価値観は世俗の物欲やら感覚的な贅沢品を否定して、精神的なものだけを感受するように生きれば意志(ここでは物欲やら贅沢欲やら)に関わらずに生きられる、という思想だったけど、文学や美術の精神的なものを味わう上では工芸だったり奇巧を凝らしたもの、あるいは物のもつ趣きに文章の質感などはかなり依るところがあって、たとえば『万葉集』巻十七にある大伴家持と大伴池主の贈答詩でも

余春媚日宜怜賞、上巳風光足覧遊。
柳陌臨江縟袨服、桃源通海泛仙舟。
雲罍酌桂三清湛、……(万葉集3973より)

余春(春の終わりの)媚らかな日は怜賞(あそぶ)に宜しく、上巳の風光は覧遊(庭遊び)に足る。
柳の陌(堤)は江に臨みて袨服を扱きまぜ、桃の源(流れ)は海に通じて仙舟を浮かべ、
雲罍(雲の壺)には桂酒のうちに三清の境を湛え、……

という中で、個人的には「雲罍(雲のような酒壺)」という語って、もはや贅沢品の中の贅沢品というか、物欲の産物でしかない気がするし、それでいて万葉末期の穠縟さをとりわけ感じさせると思うのですが、その由来らしきところをみていくと『周礼』春官の司尊彝の「山尊」という語への注釈で「山雲の罍(尊・罍はいずれも酒壺)」というのがあって、神を祭るときに山雲の形をいれた酒器で祀ったというのが古い源流らしいのですが、こうなると物欲も贅沢品も美しいものだと思えてきたりします(まぁ、60度はけっこう簡単に結びつきます)。

 ところで、このソーラーリターン図では火星・冥王星と90度になっている10室牡牛座の木星があります。これはたぶん仕事or社会としての物欲とかそういう意味だと思います。90度なので、その折衷にとても難儀する的な意味だと思う。

 なので、1室副ルーラーの火星とハードアスペクトになる天体は、敵愾心を感じさせてくるものとして、7室冥王星(外界と関わることで、火星の上位互換としての生きるための軋轢と争い)、10室牡牛座木星(たとえ仕事とはいえ、人々の物質的欲望を増やすことは害になるのではないかという話)になる。

 急に変な話になるけど、小学校に上がる前に墓の絵ばかり描いていたり、『千と千尋』の序盤に出てくる黒い影に不思議な親近感を覚えて、その絵ばかり描いていた側にとっては、あるいは同じ頃に人間なんて居なくなって植物だけの風景こそ最も美しいと思っていた側にとっては、この価値観的な問題って、なかなか越えるのが難しいと思うのですが(海王星の中心象意として、個人の消溶みたいなのがあるけど、生まれたときからそれを願う薬に浸され続けて生きてきた面があるから、その価値観的な話をどうにかしない限り何もする気にならない)、もっとも、この記事で書く話が誰にとっても有効なものだとは全然思わないし、むしろかなり奇怪な結論だと思うし、これについて荘子的な渾沌化は積極的にショーペンハウアー・王国維的な美意識を否定するだけのものにはならないと思う(しいて云うなら、中立寄りのそのままでいいくらいのところ)

閑と闌

 これについては、海王星的な価値観を残したまま、さらに王国維・ショーペンハウアーを包含するようなものが欲しいところで、最近思ったのが、荒れすさみたるような「神さびた」老木のようなものだったら、海王星的な美しさと矛盾しないのではないかということで、詳しくはこの記事に書いたけど、

 闌曲は、たけたる位。是は……松杉の年経たるすがた、……山風、塩風に揉まれ、萎れて、枝葉もまれに、禿木(かぶろき)になるまで、其性位あらはれ、さびたけたる、物の本なるべき哉。
 閑曲、此位雅び、しづかに、たけたる性位也。……たとへば、吉野、大原、小塩(大原・小塩は京都の西の山の神社)の名木の、年経て少なき枝の苔に、花の所々に咲きたるに、雨のそぼ降りたるを見る如くなるべし。静にうるはしくて、而もさびたけたる位……。以前の闌位はあらし、此閑位は静也。(室町・金春禅竹『至道要妙』)

 あれたると粗きとは、心かはるべし。……わざとあれたる風体は妙也、根本あらき物は、ただあらきのみなり。根本閑静なる所より、かりにあれたる物は、しづかなるよりも、又感あり。(金春禅竹『歌舞髄脳記』)

「神さびたもの(年を経て古色を帯びて神秘的な美しさがあるもの)」には、荒風に揉まれてがさがさになりながら半生半死のすがたで生きている奇恠な老木のような美しさと、静かな霊山の木々が歳を経て森閑と老いていくような美しさがあるとしていて、これを詩に喩えると

闌の詩

 壺二曲
  一
タレコメテ今日モアヤシキ土クレヲ
ロクロニカケテ、ナニトスカ、
日ネモスカガヤク壺ツクリ、
タレコメテノミシヨンガイナ。

  二
モトヨリ悲シキ土ノクレ、
タタキツケラレ、独楽トナリ
ロクロ廻レバクルクル廻リ、
光リ極マリ壺トナル。

 蔦
怒ニ燃エテ蔦カズラ
ヒキ挘(モギ)リツツススミユク、
崖一面ニ蔦光リ、
日ハ燦爛ト音モナシ。

光耀(カガヤキ)ノ深サヤ、
苦シサヤ、我。(北原白秋『白金之独楽』より)

閑の詩

 やどり木
あらはに透いて冴ゆるは
高いけやきのやどり木、
丹沢山の北風。

 篠原
やや薄黄ばむ小篠に
陽のあるほどのけざむさ。
見つつ行けば明るく、
かへり見すれば風あり。(北原白秋『水墨集』より)

のようになっていて、「真の詩の徳はまた、……不可見の霊界を眼前に象徴することに依て……、而かも人生の精華たるとともに真に芸術中の精華である。世に詩情なきまことの音楽家、画家、彫刻家、或は建築家、工芸美術家は有り得ない……。(北原白秋『水墨集』序文より)」ということなのではないかと。
(これも一つの偶像崇拝的なものと云われればそれまでだけど、月海王星合は変な宗教に嵌りがちとか云われるから、この程度の偶像崇拝で済んでいればそれなりに無事なのかもですが)

 というわけで、火星と冥王星の180度を調停しているのは、9室魚座海王星(海王星は蟹座で高揚なので、Ascの副ルーラー)と牡牛座の太陽というわけでした。海王星のサビアン魚座28度「満月の下の肥沃な庭」って、

 ここに一つの林檎がある。この香りのすばらしさは、一目見て私たちはその林檎の香炎にうたれる。香りそのものに本体が一つの生き物となって燃え上る、その炎の輪光。これは円い林檎の本質から来る生命力の香炎である。その時その真紅の林檎は単なる赤紅のそれで無い。その雪白の心核から淡緑色の部厚な果実の内味を透しての、その外の真紅である、紫である。その綜合の生きた球体から新鮮無比の香炎が立つ。林檎が内から躍動する。この魅惑。(『水墨集』序文「芸術の円光」より)

の翻る野菜の葉、溜塘の中に茂っている水藻の影などの気品、香りがあふれている様子なのかもですが。ちなみに、これが本質的に今までのものと何が違うのかと云われると、具体的な違いを出すことは難しいのですが、すごく大きくいうと、生きることは意志から逃げ回ることから、生きることは神さびていくことみたいな違いだと思います(かなり雑だけど)。

 そんなわけで、去年のソーラーリターンは、太陽にまつわるアスペクトとして、火星・冥王星の180度と、それを調停する太陽・海王星、さらには冥王星は変則クレイドルになっているので調和させるのが難しい、という意味だったと思います。さらに、木星は火星・冥王星と変則Tスクエアなので、全体としては木星と冥王星が奇妙な絡み方をする変則クリスタルで、太陽としては木星は仲間になりそうなのに却って異質なものを持ちこんでくる……という印象だったかもです。なんていうか、すごい疲れる一年でした(笑)

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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