文学

王国維 人間世の紅塵は愛して愛し得ず

 文学系のホロスコープリーディング、今回は清末~民国期の詩人にして学者でもあった王国維を読んでいきます。ホロスコープはこんな感じです(ハウスは推測。マイナーアスペクト使います)

 とりあえずアスペクトが錯綜していて読みづらいというか、サビアンシンボルも分かりづらいものが多いので、今回はやや変則的ですが、ディスポジターツリーをもとに読んでいきます。 

 まず、ディスポジターツリーを簡単に整理すると、このようなループになります。

山羊座金星―魚座土星―牡牛座海王星

 これだけでも厳然たる中に美しさ(山羊座金星)、豊かな自然の中に慰め(牡牛座海王星)、わずかな安らぎと慰めの中に厳しさ(魚座土星)という、物憂くて悲観的で幻想に彩られた世界が感じられると思うのですが、それぞれの天体にかかわるアスペクトと作品を重ねながら読んでいきます。

(今回は王国維の中でも文学として読んでいくので、哲学や歴史学などの方面はあまり通じてないため置いておきます……)

 というわけで山羊座金星です。金星とミニトラインの天体はこんな感じ。

金星:山羊座28度 大きな鳥小屋
火星:魚座27度 収穫の月
冥王星:牡牛座25度 大きく手入れの行き届いた公共の公園

 山羊座29度は、大きな鳥小屋のように異質なものがさまざまに溢れている様子で、山羊座の形ある秩序・体系の後ろにある多くの未体系なものを観ることです。

  如夢令
点滴空階、疏雨迢遞、厳城更鼓。
睡浅夢初成、又被東風吹去。
無据、無据、斜漢垂垂欲曙。

空(がらんとした)階に点滴(したた)っては、疏(まば)らな雨は迢遞(どこまでもつづき)、厳かな城(街)は更鼓(夜の深い刻になる)。
睡りは浅く夢の初(少し)成ったとき、又 東風に吹去(吹き散らされる)
据るものもなく、据るものもなく、斜(ななめ)った漢(天の川)は垂垂(垂れ下がり)曙(明)けようとする。

 このふっと見慣れたものが抜けて、世界にはこんな姿があったんだ、と知る美しさを詞にするとこんな雰囲気になり、物物しい街が深い夜に雨すらも消えかけそうになると、何もかも放り出されたような本質だけの暗がい広がりに落ちていく感じというか、さきに書いたループする金星・土星・海王星を感じされる詞です。

 魚座27度は、秋の収穫の季節に金色の月が浮かんでいるような、豊かな世界にふっと包まれている様子、それが魚座で起こるので、気持ちのあり方で世界の感じ方を変えていくような豊かな感性みたいな意味で、火星なので頑張ってその領域に入るという意味、冥王星は牡牛座25度なので、もとから豊かで整った世界はあるけど、それが人間にとっては却って暗い感情を起こさせるもの、それが金星の観相を援けていると読みます。

 この様子を詩論にまとめているのが『人間詞話』(人間は「じんかん」と読み、人の世の意)で、王国維の文学論はここに凝縮されるように書かれていて、ちなみに詞は、中国では音楽の歌詞として唐の後半~宋代に行われて、詩よりも俗謡寄りの作品が多くて、王国維は詞を好んで作っています。あと、詩は一句の文字数が同じですが、詞はもっと不規則で、いままで出来なかった句法も多く使われています。

『人間詞話』は、境界説という詩論に由っていて、境界説は王国維の独造なのですが、境界は境地、領域の意味です。

詞は境界あるものを最上とする。境界があれば自然と高い格調になり、名句もある。
境界には「有我の境」と「無我の境」がある。
「涙を湛えて花に問うに花は答えず、はらはらと紅い花びらは鞦韆(ぶらんこ)を過ぎていく」「孤りの館で春の寒さに戸を閉ざし、杜鵑の声のうちに夕日の暮れていくのは堪えられるけど」というのは有我の境、「東の籬(垣根)に菊を採り、悠然として南山を見る」「寒々しい波の澹々と起こり、白い鳥は悠々と下る」は無我の境。有我の境は、私の目で物を見るので、物にはみな私の色彩が入り、無我の境は物として物をみるのでどれが私か、どれが物かわからない。古人の詞では、有我の境を写したものは多いが、無我の境を写すのはできないわけではないけど、できたのは豪傑の士だけだった。
無我の境は、人はただ静かな中にだけ得られ、有我の境は動いているときから静かさに入ったときに得られる。故に無我の境は優美、有我の境は宏壮(ざわめきに満ちて大きい)。
「紅い杏の枝先に、春の意(おもい)が鬧(さわ)いでいる」の「鬧ぐ」に境界は全て出ていて「雲の破れて月の来り、花は影を弄ぶ」は「弄ぶ」に境界が全て出ている。

 もともと世界にはこんなにも豊かで美しい風景があったのに気づかずに生きていて、ふとした時にそれを窺いたような風景が「境界」で、その風景から普段は離れていることを悲しんでは世界は過ぎていくざわめきに満ちているのが有我の境、その世界にふっと溶けてしまうような穏やかさが無我の境で、そのときの風景は春の溢れるような鬧ぎ、光の透けるような花の影にすべて入っているように表されるというのが境界説の大体なのですが、その美しさは薄い光の下午に浮かんだ虚ろな紅茶の中の色みたいにぼんやりとしているのが金星のサビアンシンボルだと思います。

 その金星に悲しみの影を落としている魚座土星は、太陽とスクエアなので(月とトラインは違うかもしれないので読まない)、サビアンシンボルと作品を並べてみてみます。

太陽:射手座11度 寺院の左側にある肉体的悟りをもたらすランプ
土星:魚座14度 キツネ皮をまとった女性

  蝶恋花
窗外緑陰添幾許、剩有朱櫻、尚系残紅住。
老尽鶯雛無一語、飛来銜得櫻桃去。
坐看画梁双燕乳、燕語呢喃、似惜人遅暮。
自是思量渠不与、人間総被思量誤。

窓の外の緑陰は添えること幾許(どれほど)かと思うに、剩(あま)して朱櫻(さくら)の木のあって、尚お残(あや)うい紅を系住(かけ)ている。
鶯の雛を老尽(お)いさせて、一語もなく飛んで来ては櫻や桃を銜えて去(ゆ)く。
坐って画梁の双つの燕の乳をあげるを看ていれば、燕語は呢喃(やわらかくつながって)、人の遅暮(ぼんやり暮れていく)のを惜しむようで、
これより思量(考えること)は渠(その人)の与(合わせる)ことなく、人の間(世)は総(皆)思量(おもい)の誤りを被(重ねて)いるのだが。

 サビアンシンボルで、左は直観、右は論理(身体の左をつかさどるのは右脳なので)になるので、寺院で直観的な悟りを得たい、それは身体の感覚とも外れない悟りでありたいという太陽は、生きていく中で感じる感情が自然の美しさと重なるような詞を作りたいという王国維の生き方そのものを表すのだけど、スクエアで遮るような土星は、キツネは狡猾さを表すので魚座的にさまざまな感情を孕んで、ときには偽りや嘘も人の感情が生み出したものとして受け入れることを強いてくると読みます。

 この作品の解説としては『人間詞話』の中からそれらしいところを引用したほうがいいので、幾つか。

「四方を瞻(み)るに、うずくまったように追い込まれて馳せ回れるところもない」というのは詩人の憂生(生きることを憂う)である。「昨夜の西風は碧の樹を凋(しお)れさせ、独り高い楼に上れば、天涯(天の果て)までの路を望尽(みわた)して」が似ている。「終日 車を馳せて走っても、津(路)を問うところは見つからない」というのは詩人の憂世(世を憂う)ことで、「百草千花の寒食(春の盛り)の路、香車(飾り車)は誰の家の樹に繋がれるのか」はこれに似ている。
客観の詩人は、世を多く見なくてはならない。見ればいよいよ深く、材料も豊かになるからで、主観の詩人は、世を多く見てはいけない。見ることがいよいよ浅ければ、性情はいよいよ真になる。
詩人は一切の外物(身の周りの物)を見るに、みな遊びの材料とするが、その遊びはふざけずに行うので、ゆえに諧謔と厳粛さの二つを缺いてはならない。

『人間詞話』はかなり不規則な並びの随筆様の文章なのですが、離れて書かれているこれらの条をつないでみると、人はみなこの世に放り出されるように生まれていて、その悲しみをさまざまに感じながら生きていくのだとしたら、人の世の悲しみを描くのが詩詞で、悲しみの中でも遊ぶのが詩詞であるという、主観的な文学論です(大学生のとき、これを読んで文学に目覚めた……)人の感情は偽りや嘘などで互いに悲しませ合うので、そんな世界を脱け出したいと思う人間に、人の感情は絡みつき、詩を生ませる。

 そして、人の世の感情を軋らせる土星は、その曖昧(あやふや)さを牡牛座の海王星から与えられていて、わずかな甘い美しさに誘う穠然たる自然(牡牛座海王星)は、ふたたび山羊座金星の観相でみられるのですが。

 というわけで牡牛座海王星なのですが、詩にするとこれだと思う。

  菩薩蛮
紅楼遥隔廉繊雨、沈沈暝色籠高樹。
樹影到儂窗、君家灯火光。
風枝和影弄、似妾西窗夢。
夢醒即天涯、打窗聞落花。

紅楼は遥かに廉繊(さらさら)雨を隔て、沈沈(しずんだような)暝色は高樹を籠(おお)う。
樹の影は儂(私の)窓に到り、君の家は灯火(あかり)が光る。
風と枝は影を弄び、妾(私の)西窓の夢に似る。
夢の醒めれば即天涯(この身だけで)、窓を打っては落ちる花を聞くのだけど。

 独りでいる夜にふと雨に湿った花が落ちる音を聞いて目覚めるような、色合いの茫々とぼやけるような深い緑や花の紅、黄色などに飾られた自然の慰めで、それだけが人の世の悲しみを癒すものだとしたら

詩人は宇宙や人生に対するに、その中に入ることが求められ、出ることも求められる。その中に入れば写すことができ、そこから出れば観ることができる。その中に入れば生気があり、その外に出れば高い趣きがある。
詩人は必ず外物(身の周りの物)を軽んじるべきで、それゆえ風月を奴婢として、また必ず外物を重んじるべきで、それゆえ花鳥とともに憂楽をともにできる。
詞の様式としては「要眇(ゆらりとして)宜修(飾られている)」ので、詩では言えないことを言えて、さらに詩では言い切ってしまうことを言い切らない。ゆえに詩の風景は闊(広く)、詞の言葉は長い。

のように、その慰めは美しいけど、どこまでいっても慰めではしかなく、それだけではどうにもできないという悲しみに帰っていく。そして、悲しみと慰めを繰り返すことをみつめる観相があり(世を出る)、その自然を描く楽しみがあり、その終われないものを書いたのが詞(想いを深く描き過ぎない俗謡)で、見通すように書いたのが詩ということになる。

 これだけでも十分に天体やアスペクトについては読んだ気がするけど、牡牛座海王星と射手座太陽はバイクインタイル(144度)なので、遊び心を持って関わるとすると、この世で真理を知ることは自然の中で慰めを得るということなのかもしれないし、まだ読んでいない水星については

水星:射手座22度 中国の洗濯物

なので、中国からやってきた移民が洗濯業をしていたように出来ることから少しずつ試みるように知るとすれば、火星:収穫の月(豊かさに包まれていることを知る)とスクエアなので、みずからの知れることはどこまでも狭く、限られているという意味になるかもしれない。

  浣渓沙
山寺微茫背夕曛、鳥飛不到半山昏。
上方孤磬定行雲。
試上高峰窺皓月、偶開天眼覷紅塵。
可憐身是眼中人。

山寺の微茫(ぼんやり)として夕曛(夕陽)に背き、鳥は飛んでも半山の昏(暗)きに到らず。
上の方では孤つ磬(鐘)が行く雲を定(とど)める。
試しに高い峰に上り皓(白い)月を窺えば、偶(偶々)天眼を開き 紅塵(世の塵)を覷(み)る。
憐れむべきは身(私)は眼中の人と同じなのだけど。

 この抜け出したと感じることは、実はみずからも俗世の人と同じだと知ることでしかない、こんな詞を書いていても感情の欺きと軋りからは離れられていないと書くことが本当にいい詞なのだと知ること、できることはどこまでも限られていると知ることが文学の行きつく先だったとしたら

  点絳唇
厚地高天、側身頗覚平生左。
小斎如舸、自許回旋可。
聊復浮生、得此須臾我。
乾坤大、霜林独坐、紅葉紛紛堕。

厚い地に天は高く、身を側(置)けば頗る平生の左(軽)きを覚える。
小さな書斎は舸(舟)のようで、自ら回旋(めぐらせられる)のだけど。
聊かの復た浮生、此の須臾(ひととき)の我を得て、
乾坤(天地)は大きく、霜林に独り坐れば、紅葉は紛紛(はらはら)として堕ちるのだけど。

 それでもやはり、慰めに遊ぶしかないのかもしれないが。命ばっかり余っているけど――。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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