文学

北原白秋 金色の十方法界

 今回は文学系のホロスコープを読みます。個人的には文学が専門のつもりなので、たぶん今までより上手く読めていると思います。というわけで、まずは自然の風景を描いたら最も美しいと思っている北原白秋です。ホロスコープはこんな感じ(ハウスは推測)

 すっきりしているようで、どことなく癖のある形……。月がかなり全体の印象を決めそうだから難しい面もあるけど、とりあえず幾つかアスペクトのまとまりを。

太陽、火星、天王星、冥王星で風のグランドトライン
キロンと冥王星が合
月はオーブを緩く取れるので、どの時間でも海王星と合
水星と金星はかなり緊密な合
地星座と風星座のみで、事実(地星座)と論理(風星座)を好みそう
真理・正宗・観相・貴族的・高雅・高邁という印象のサビアンが揃う

 というわけで、風のグランドトラインから読んでいきます。ちなみにトランスサタニアンは、当時は未発見でも今から見るとそういう生き方に見える(当時は別の評価を受けていた作品が、今の価値観で読んでみると別の評価になる)と思っているので、このブログでは現代の感覚で読んでみて受ける印象を読むためにすべて使います。

 まず、風のグランドトラインを読む前に冥王星とキロンの合なのですが、キロンは「~ができなくても大丈夫。なぜなら私も~はできないから」というのが本質だと思っていて、白秋は

キロン:双子座5度 急進的な雑誌
冥王星:双子座1度 静かな水に浮くガラス底ボート

なので、キロンは「表現が刺激的だったり目を引く新しさを持っていないけど、それでもいい」といいているようで、その例は白秋の詩論に多く表れてます。

 虚と実とは裏と表である。実にして虚、虚にして実なるが故に尊い。何れは先ず実相のまことを観、観て、深く到り得て、更に高く離れむ事をわたくしは願っている。

 実相に新旧のけぢめは無い。常に正しく新らしいからである。これを旧しとなすは観て馴れ過ぎたからである。一時の流行は時とともに滅びる。而も人はただ新奇を奔り求める事に於てのみ、その詩境を進め得るものと思っている。然し何ぞ知らむ。此の東に於てひたすら彼の西の旧を趁うて新らしと成す秋に、却て西に於ては此の東方に道を求める事が常に新風発生の素因を成している。こうなると何が新らしいかと思わせられる。

 再び云う。実相のまことこそ常に正しく新らしいものである。いつ観てもまことなる事に於て渝(変)りは無い。芭蕉の説いた不易はこの永生の流に通ずるまことの詩の精神である。詩の正風はそうした精神に根柢を置く。この精神は殊に我が東洋芸術の真髄と成すところのものである。

 此の集の詩もおそらくは今人の眼に旧しとせられるであらう。それでわたくしはいいのである。詩境の高さは観相そのものの高さに由る。気品は巧みて得らるるもので無い。その人のおのずからなる円光である。だからわたくしは所謂新奇に浮かれて飽かざる事よりも詩のまことの大道をただ一筋に修めて行けばいいのである。(「観相の秋」序)

 これを読むと「近代に至って詩に繊細にして複雑な感情・意味を入れる流れに自らは合わせることができない、でもそれでもいい(キロン)、私は純粋に興味をもって世界を観察することを命をかけてでもやらねばならないのだから(冥王星)」という台詞にまとめられるようなアスペクトです。

 それが風のグランドトラインに流れているので

太陽:水瓶座5度 先祖の委員会
火星:水瓶座9度 鷲に変化する旗
天王星:天秤座3度 新しい日の夜明け、すべてが変わった
冥王星:双子座1度 静かな水に浮くガラス底ボート

 まずは天王星を通ると、天秤座は調和するサイン(牡羊座~乙女座で完成させた個人の世界を、多くの人々の間に調和する形であらわす)だと読めるので、いままで夜に閉ざされて知らなかったものの整った姿を天王星の独特な視点で知っていくという意味で、さらに火星・太陽に流れ込みます。

 火星のサビアンは、水瓶座の抽象的な概念(旗)が実体を持つ物に変化すること、太陽のサビアンは水瓶座の普遍的な真理は、代々の人々によって受け継がれてきた見えない法則に支えられていることを表すので、「観相の秋」序とあわせて読むと白秋の詩歌観がすっと入ってくるような文を載せておきます。

 薔薇二曲
  一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

  二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。(『白金之独楽』より)

 詩の香気と品位ということを私はいつも考える。これを総じて気品と云い気韻というのはそれである。これは巧みて成るものではない。詩人その人のおのずからな香気と品位とがそのままそれらをその詩に持ち来すのである。
 ここに一輪の白薔薇がある。その白薔薇の香気は既にその葉にも刺にも幹にもその根にも充満しているのである。決してその花にだけ突然あの清高馥郁たる香気が現われたのではない。その凡てから押し上げる香気と品位とが、即ちその白薔薇さながらの気韻を躍動させるのである。
 この充ち満ちている気韻は一枚の薄の葉にも私たちは見ることを得る。根本より先端に至る、それは鮮麗な緑の気韻そのものである。
 いかなる細微の、いかなる目につかぬ隅々にまで、その心を潜める事に於て、おのずから我と気もつかなかった深い気韻の中に我を見出すであろう、あらゆる虔ましさの美徳に由って。

 真の、つまり気韻なるものは、むしろこの人の目にもつかぬ奧所の美徳から紛々と高い霊魂の香気を発して来るのである。外に現わるるのはその餘香である。薔薇の気品は一先ずその根に於て完備し尽くされている故からの気品である、美と均整とによって。

 私はいつかいかにも端麗なある小さい海螺(つぶ)の素肌を見た。甲羅の壺から小楊子でほじり出されたその素肌は、黒と薄青のそれは透きとおった大理石の光沢であった。その誰の目にもつきそうにない、恐らくは海螺自身すらも意識しそうにない、その肌の一部には派手な海老茶色の渦巻模様さえ刺青されてあったのである。考えると自然の摂理と云おうか、知恵と云おうか、殆神意とも見るまでに入念に丹精をこめたその模様は、否、その神技の由って来る霊徳は、海螺の殻の外までも、否、海螺全身の気品をさえ、その内面から冷えびえと整えさしていたのである。(『水墨集』序文「芸術の圓光」より)

 冥王星に支えられた深い観相は、天王星に至って誰もみたことのない実相を見ること、その実相はふだんは窺い知ることのできないもの故に見る人にとっては永遠に新しいこと夜明けの天王星の輝きのごとくして、それをみれば太陽と火星は長い間心のうちに眠っていた、世々の人々のわずかに知り得た(気韻や霊徳などが混ざり合った)ものが自然の風景の中にみえるという観相のグランドトラインを文章にしたような二篇だと思うのですが、双子座冥王星・天秤座天王星・水瓶座火星、水瓶座太陽と、さらさらと真理のある詩を感じさせ、さらに太陽とキロンのトラインは刺激的な作品にならないけど、それよりも水底をすっと深くみつめるような観相があればいいという意味でしょう(白秋の詩は近代ではなくても、きっと普遍的な魅力を持つと思うのは、いつの世でも変わらない自然だけを書いているからだと思う)

 冥王星・キロンは木星とスクエア、木星は水星・金星とトラインなので

水星:山羊座11度 キジの大きな群れ
金星:山羊座11度 キジの大きな群れ
木星:乙女座5度 妖精の夢を見る男

のようになって、木星のサビアンは乙女座の現実世界を生きながらも、夢と知って妖精のことも受け入れるような感覚、これが木星なので現実世界にもそのような楽しみ、遊びのあるようで、それが水星と金星を支えます。この二つはかなりタイトな合なので、身近な風景や感覚を伝統に基づいた形(山羊座)でつかって美しい文章を書くという意味になりそうです。

 山羊座11度のキジの群れは貴族や荘園領主たちの庭園で飼われる特別なキジたちの意で、洗練されて優雅な庭に、翠鸞緋鳳のような鳥たちが鄰菌(さらさら)と過ごしている姿を眺めて遊ぶ様子、これを目に見える感覚に即しながら美文で属(つづ)り、冥王星・天王星・火星・太陽のような意思の世界では目に見えないものへの想いを強く持ちつつも、冥王星からスクエア繋がりなので作品のうちにはあまり書きすぎないという意味になりそうで、深微な理論をつくる風星座と、目にみえる風物を繊細に描く地星座です。

 個人的には、新旧の変遷を経て残りつづける本質的なものとしては山羊座と水瓶座にあって、その違いとして山羊座は伝承、水瓶座は通変にあると思うのですが、伝承は完整したものをそのままに残していくことで、残っている形そのものが本質と重なり、通変は本質的な真理は外形に関わらないところにあって、その真理に外れなければ外形はどんなに変えてもかまわないという雰囲気です。白秋のホロスコープでは、太陽や火星など意思をあらわす天体は水瓶座にあって見えない本質を求めながら、水星や金星など作品として形にするときは山羊座の貴族的で洗練されて落ち着いた伝統のなかに寄せていくという表現の構造がある(理論は水瓶座、外形は山羊座というのは白秋の特徴)

 それをよく感じさせる作品として、一つ例を。

 長歌体を選んだのはそう成る可き内容だったからである。長歌は万葉に由来するが、わたくしのものは万葉のそれとも違う。わたくしの詩の内容にその形式を採ったのである。此の形式のすぐれたところはかの絃楽の如く絶えんとして続き、続きつつ縹緲としてまた絶えんとする一流れのリズムの起き伏しにある。ことさらに行を別けず其まま書き下したのもその故である。兎角、日本のものはこういう風にしぜんに書き下すのがほんとうのようである。(「観相の秋」序)

  潮来の入江
すな真菰、真菰が中に菖蒲さく潮来(いたこ)の入江、はるばると我が求(と)め来れば、そのかみの潮来の出嶋荒れ果てて今は冬なる。旅やどり、消ゆるばかりに、一夜寝て寝ざめて見れば、霜しろし水(み)の辺の柳、何一つ音もこそせね、薄墨の空の霧(き)らひにただ白く枝垂(しだ)れ深めり。枝垂れつつ水にとどけり。また白き葦にとどけり。そのかげの小さき苫舟、いよいよに霜の凍りて、こまごまと霜の凍りて、舟縁(ふなべり)も苫も真白く、櫓も梶も絶えて真白し。つくづくと眺めてあれば、閑(しづ)かなる入江のさまや、苫舟にのぼる煙も、風無(な)けば直(す)ぐに一すぢ、ほそぼそとしばしのぼれり。広重のその絵の煙、目に見れば浮世なりけり。あなあはれ水の辺の柳、あなあはれかかりの小舟、寂しとも寂しとも見れ。折からや苫をはね出て、舟縁の霜にそびえて、この朝の紅き鶏冠(とさか)の雄の鶏(かけ)が、早やかうかうと啼き出でけるかも。(「観相の秋」より)

 序文のほうは水瓶座の通変で、万葉の王朝を讃えるような柿本人麻呂、山部赤人などの長歌とは異なるけど、その連綿としたリズムの起き伏しだけを取り出していて、其処に自然の姿の観相を入れて、落ち着いた風景を高雅でクラシカルな言葉だけで詠うのは山羊座の伝承でしょう(芸術の本質としてよく云われそうだけど、ここまで美しい形でされている例は少ないと思う。ちなみに山羊座と水瓶座で合の天体は、どちらもアスペクトの終着点になる)この詩風はさらに洗練されていく。

  落葉松
 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

 二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。

 三
からまつの林の奥も、
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

 四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
細々と通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。

 五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり。
からまつとささやきにけり。

 六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのそのまたうへに。

 七
からまつの林の雨は、
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

 八
世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 嫺雅で淡い言葉で書かれ、湛々とした霧のある林はどこまでも広がって、少しずつ形を変えながら風景の中を歩いていくことは、霧の間に清冽な風とからまつの気(気韻)が僅かに覗いては隠れる(「細々と通ふ道なり」は現、「さびさびといそぐ道なり」は隠、「からまつはさびしかりけり」は隠、「からまつとささやきにけり」は現)ような趣きのある神品にして霊品です(白秋の神や霊は水瓶座的な真理の霊、透明な霧雨のような霊が近い)

 そして、もう一つの地星座側として月・海王星の合があるのですが(もしくはノーアスペクトで無意識に効き過ぎている海王星)、海王星:牡牛座21度 開いた本を指す指(個人的には「月:牡牛座14度 模索している貝と遊んでいる子供たち」という予想)なので、牡牛座らしい好きなものをもっと深めて、深い秘密に呑み込まれていくような意味とすれば、それらしい表現を「芸術の圓光」から引用します。

霊徳・至妙境・香炎體・歓楽境・霊感の受胎
韻律の波を織って茲に初めて縹緲たる霊妙の音を成す
微妙にして恍惚、実にして虚、神意にして魔法、現識にして幻想、華厳にして閑寂、光明にして無常、ただ美、ただ聖
常に高く超越し、飛翔し、遊行し、奏楽する
澄心三昧の閑寂境
華厳の大光明の中に閑寂の真諦を悟る無上の神格
緑の、紅の、黄の、紫の、あるいは茶色の、銀の香炎體をその背に負うて、既に幾多の詩人たちがあった。然しながらかの金の圓光を頭上に戴く最高最貴の詩聖は古往今来極めて稀有である。西にはダンテ、そうしてゲエテ、純真無垢のヴェルレエヌ。唐の李太白、日本の人麿、そうして芭蕉。おお、その芸術の詩の圓光。私は涙し、禮拝する。

 もはや海王星世界そのもの、海王星的語彙だけでできている文章。互いに矛盾し合いながら、波どうしが撃(ぶつか)って揚がっていくような響き合い……(月・海王星の合は、日本の近代文学だと泉鏡花もそれらしいけど、幻想性というより現実世界の上に一層の海王星の薄布がかかって、その面にさまざまな柄が織ってあるように世界をみているのが似ている気がする。いわゆる「実にして虚」)

 これだけでも十分だけど、さらに白秋らしいのがあるので、あと二点。

 まずは作品においては、個人的な考えでは無意識に入れてしまう裏の主題のような現れ方をするリリス(トゥルーブラックムーン)で、ルディア版のほうが分かりやすいので併せて載せます(原文・訳はこちらを参考にしてます)

リリス:山羊座26度 水の妖精
The ability to perceive the hidden and creative spirit of natural phenomena
自然現象に秘められた創造的な精神を感じ取る力

 もはや白秋が一生かけて追い求めたそのもので、「山羊座25度 東洋のじゅうたんを扱う商人」で異質な文化も秩序のうちに包み込んでいる様子とすると、その完成された秩序の背後に流れている水のようなもの、巉巖とした山を潤す小さな泉瀑のようなものを好む(水瓶座的な見えない秩序)のが山羊座26度になる。

 さらに白秋には言葉そのものへの畏敬の感情が多く(これも同じく月海王星合の泉鏡花にも云えるのだが、白秋は清淅、鏡花は朦朧)、牡牛座海王星らしい感覚と神秘のつながりを書いている部分。

 言葉の一つ一つは凡てが生ける言霊である、生物である。その生物としての言葉の本質はことごとく神秘である。その言葉の持つ一つ一つの音韻の感覚は極めて本能的な生物の必然性によって恵まれている。この生きた言葉はあまりに幽かなるが故に、又あまりに新鮮なるが故に、又自らあまりに潔癖なるが故に、往々にして気死し、自殺し、相殺する。この微妙な、気品あり香気ある生物に対して、不遜と粗暴と不謹慎との処遇若くは機智的戯弄は絶対に敢てしてはならぬ。
 詩の言葉は実に節約すべきである。実に実に愛惜すべきである。一の内容を現わすべく最適確の言葉、その尊い言葉は此の現世にたった一つしか無いことを、真に知り得るならば。真に愛するならば。
 思え、詩の一語は飽くまで簡素なるべき事が、即ち東洋芸術の最高最上の真諦ではないか。要するに詩の神秘或は幽玄の風致は極めて言葉を尊崇し節約する、敬虔にして森厳なるそのただ一点から来るのである。極度に惜しまれた言葉の餘韻――とりもなおさず気品ある霊魂の餘韻――餘徳である。(「芸術の圓光」より) 

 言葉そのものが真理と一つになって元々この世にあるような、その秘密を窺い知る思いのする詩論が「芸術の圓光」の中では書かれていて、それは今までの個々のサビアンなどを読んできたことよりも、却ってディスポジターツリーで見てみると感じられやすいです。

 まず、大きくまとめると、全ての星は山羊座の水星・金星に集められて、双子座土星(双子座18度 中国語を話す二人の中国人)に入っていく。双子座土星は山羊座水星とミューチュアル・レセプションなので、古くより続いてきた重みのあるものは全て平易にしてすっと伝わる言葉(双子座)にあり、そのような言葉こそ時を経ても残り続けるもの(山羊座)であるという一体化がある。故に「芸術の圓光」にいう。

 私は思う。この日本の言葉はあまりに豊満すぎる、あまりに感覚的であり、本質的すぎる。
 この幽玄にして知り得ない、儼然として豊満な世界こそ、言葉と自然、風と地、真理と風景だけがあって、それに重々しく厳粛にして荘厳な土星と軽やかにして平明自在な水星の混ざり合う世界、落葉松に霧包み、雲の涌いては金の圓光の流れる世界なのだと思う。

  水面
光リカガヤク水面(ミナヅラ)ニ
ポント落チタル音シタリ。

飛沫ハネアガリ、波光リ
落チタルモノノカゲモナシ。

飛ビ込ミシモノ、ヤヤアリテ
ツラツラト躍リアガル。

マンマロキ林檎ナリケリ。

麗ラカヤ十方法界、
光耀ノフカサヤ。(『白金之独楽』より

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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