美術

ヴァシリー・カンディンスキー 天籟を聞く人へ

 今回は抽象画を最初に始めた人として知られるヴァシリー・カンディンスキーを読んでいきます。ホロスコープはこんな感じ。

 一見するとあまり目立った複合アスペクトなどもないホロスコープにみえますが、カンディンスキーの芸術理論と合わせて読んでいきます(カンディンスキーは抽象画の理論家としての面もある)。

 まず、目立っているのは月へのアスペクトの集中です。出生時間も分かっているのでしっかり月を読みます。

月:牡羊座6度 一辺が明るく照らされた四角
水星:射手座8度 岩とその内部で形成されるもの
木星:水瓶座4度 インドのヒーラー
天王星:蟹座7度 月明かりの夜の二人の妖精
海王星:牡羊座11度 国の支配者

 とりあえず、月・海王星合から。まず、月のサビアン:一辺が明るく照らされた四角は、四角は安定、一辺だけ明るいのはちょっと集中しすぎみたいなイメージなので、牡羊座の勢いが何かを確立している状態にしたいと逸るように現れる、と読みます。海王星は国の支配者なので、何かの原理を自ら作ってまとめたいという形の牡羊座です。これだけでも十分に理論に拘りそうな感じは伝わって来るので、それを感じさせる一節を引用。

(基礎平面とはキャンバスの四角形のことで、)どのような生物も、つねに「上」「下」の関係があり、そしてそれは不変不動のものであるということ、これはそのまま、それ自体一箇の生物である基礎平面にも、当てはまる。このことは、部分的には、連想作用によるものとして説明できるが、……この事実はもっと深いところに根を下ろしている――つまり、生物であるという――ことだ。芸術家でない素人には、こうした主張は奇異の感を抱かせるかも知れぬ。しかし、芸術家ならだれでも――たとえ意識はしないにせよ――まだ手を染められていぬ基礎平面の「息吹き」を感じるし、また、彼は――多少は意識して――このものに対し責任を覚え、このものを軽率に扱い傷つけることは一種の殺害行為にほかならぬ、と悟る、とだけは確かに言えると思う。芸術家はこのものに「受胎させる」。そして、いかにして基礎平面は、従順且つ「喜んで」、適切な秩序を形づくる適切な諸要素を受け容れるか、その術を心得ている。プリミティーヴではあるが、しかも生命を持つこの有機体は、適切に手を加え取り扱うと、生き生きとした一箇の新しい有機体に変わる。が、それと同時に、もはやプリミティーヴな存在ではなくなって、進化した有機体がもつあらゆる特質を顕わに示し始める。(ヴァシリー・カンディンスキー『天と線から面へ』基礎平面より。ちなみに、この基礎平面は、上は軽くて希薄なので重いものを入れると余計に重く見える、下はぎっしりしていて動きがないので、重いものを入れるとよく馴染んでしまう、左は上に次ぐような軽さと薄さがあり、右は下に次ぐ重さと縛りがあるとする)

 月・海王星合の芸術家って、個人的には自身の専門としているものへの汎神論的な信仰が漂っているようにみえて、カンディンスキーのこの理論もそうだし、日本文学だと泉鏡花・北原白秋あたりが月・海王星合かもしれないのですが、鏡花の文字への畏怖(どんな小さなものでも、文字の書かれた紙は捨てられない・字を書いたら、その字は力を持ち続けるので残すか消すかしないと呪力が漂い続ける)、白秋の言葉への崇拝にも似ている。

 言葉の一つ一つは凡てが生ける言霊である、生物である。その生物としての言葉の本質はことごとく神秘である。その言葉の持つ一つ一つの音韻の感覚は極めて本能的な生物の必然性によって恵まれている。この生きた言葉はあまりに幽かなるが故に、又あまりに新鮮なるが故に、又自らあまりに潔癖なるが故に、往々にして気死し、自殺し、相殺する。この微妙な、気品あり香気ある生物に対して、不遜と粗暴と不謹慎との処遇若くは機智的戯弄は絶対に敢てしてはならぬ。見たところ、詩人のほとんど多くが、この言葉の一つ一つを不憫にも無知無識につまみ殺している。殺された言葉は死骸の儘に、恣に羅列される。死語死調の詩が成る。こうした詩が無気無力で其処に何等の芳香をも魅惑をも発散し得ないことは当然すぎるであろう。詩人にとっては、この言葉を殺すことは人を殺すことよりも罪悪である、極悪である。恥じて死ぬべきである。(北原白秋『水墨集』「芸術の圓光」より)

 最後の「人を殺すより……」のところが、もはや月が海王星に憑依されている世界です。芸術はこの世のものを描いているのではなく、言葉も色や形もすべて人間より先にこの世に生きていた生物だったみたいな感じ方が月・海王星合には多い。

 水星は、表面上はふつうそうにみえる岩の中で、少しずつ奥に深みがたまっていくように射手座的な探求をする、です。射手座の楽観・自由などよりも内面の探求に向かっていて、月とトラインなので、一つの秩序を作りたい不思議な感情(月・海王星)と、それを支える理論(水星)みたいになります。

 木星はインドのヒーラーのように、ふつうの文明人が失ってしまった感覚に根差して、どことなく脱離的な普遍性に導いてくれる水瓶座の面が出ている木星です。木星なので結構勢いがいい感じで飛躍的な理論を出しそうな感じなのですが、それっぽい一節を。

 不均等な部分にわかたれ、その最も小さく、最も尖った部分を上の頂点とする大きな鋭角三角形――それには、精神生活が図式的に適切に表されている。三角形のわかたれた各部分は、下にさがるにしたがい、辺の長さはしだいに長く、底辺の幅はひろく、高さは高く、そしてその面積もしだいに大きくなる。
 三角形全体は徐々に、ほとんど眼につかぬほどの動きで、前へ、また上へと動きつつある。そして「今日」最上部が占めていたところは、「明日」にはそれに接する次の部分が占めるようになる。すなわち、今日はただ頂点部にしか理解できぬもの、三角形の残余の部分にはすべて不可解なたわごとにみえるものが、明日には、頂点部につぐ第二の部分の生活にとって、思想感情の豊かな内容となるのだ。
 最頂部の先端には、ときにはただ一人の人間しか立っていないことがある。かれの楽し気な眼差しは、その心中のはかり知れぬ悲しみを示すようだ。かれの真近かにいる人びとさえ、かれを理解しないのだ。憤然としてかれをののしっていう。いかさま師、気狂い病院ゆき。(ヴァシリー・カンディンスキー『芸術における精神的なもの』Ⅱ 運動より)

 この三角形の運動は、「宇宙の生存を、無益有害な遊戯をしてしまった物質主義的世界観の悪夢は、まだまったく消え去ってはいない(同書Ⅰ 序論より)」中でも起こっていて、

 さらにまたその反面では、われわれの感覚の近づきえぬ「非物質」、あるいは物質に関する問題につき、物質的科学の方法に希望をつながぬ人びとの数が増しつつある。そして、原始人の力を借りようとする芸術の場合と同様に、こうした人びとは助けをもとめて、なかば忘れられた時代に、また当時の、今ではなかば忘れられてしまっている方法に眼を向ける。このような方法は、われわれが自分たちの知識程度を標準として、いつも同情と軽蔑との入りまじった気持で見おろしている諸民族の間では、今なお生きつづけているのである。
 こうした民族に属するものに、たとえばインド人がある。かれらはつぎつぎに、謎めいたいろいろな事実を、われわれ文明国の学者の前に提出する。それは従来は注意もされなかったか、さもなければ、まるでうるさい蠅でも追っぱらうように、うわべだけの説明や言葉で追い払われていたものなのであるが。(同書Ⅲ 精神の転換より)

 ちょうどインドのヒーラーふうの、精神文化への回帰を勢い任せに書いた感じの理論っぽく感じません?カンディンスキーのいう「抽象画」は、「具体的な植物や風景など、あるいは円や四角などの形などの外面的なものに捉われずに、もっと内面で感じているものを描く作品」なので、物質主義的に実際の風景などをいかに上手く描くかということに凝るよりも、もっと新しい様々な精神的な質感のようなものを描いてもいいという意味です(こういうふうに、精神的に新しい領域を切り開く感じは、牡羊座の月・海王星合っぽい)。

 このように、月をアスペクトを持つ天体はそれぞれ抽象芸術の理論を支えるように関わっているのですが、一つだけスクエアで絡む蟹座天王星がどのように現れるかというのも読んでみます。

 天王星は予期しないものなので、蟹座7度は月明かりの下で静かに戯れる二人の妖精のように、気まぐれなロマンチシズム・自由すぎる神秘的な関係みたいになりそうです。さっきまでの月に関わるアスペクトが、どれも原理・原則のような方面につながる雰囲気を持っていたのに、ここだけ感情的なものがスクエア的に割り込みます。これはおそらく、カンディンスキーが上に書いたような理論をどのように用いるかを訊かれたときに

 ところで、このような方法で、芸術の理想について今日でも無限に理論を立てることができるが、その反面、理論というものはいつも、細部にわたる個々の点では、先走りするものである。ここでは、先ず何よりも重要なのは感情の事実である。ただ感情によってのみ、殊に芸術創造の初めには、芸術的に妥当なものが獲得されるのだ。(同書Ⅵ 形態言語と色彩言語)

というように、その理論を生かすためには感情が要るのだけど、本の中ではほとんど理論のほうについて解説されるので、その後もまた理論の話になっていくみたいに、やや不整合な入り方でつながっている感じがスクエア感です(カンディンスキー本人がどのような感情を書いていたかは後で読んでいきます)。

 というわけで、月に関わるアスペクトが読み終わったので、残りの天体もみていきますが、ひとまずノーアスペクトの太陽と金星から(土星・冥王星は世代相)。

太陽:射手座25度 玩具の馬に乗っている小太りの少年
金星:射手座17度 復活祭の日の出の礼拝
火星:蟹座29度 双子の体重を量る芸術の神ミューズ

 太陽は射手座の25度なので、射手座らしさが極まってやや異なるものまで大きく含んでいるような拡大解釈された射手座です。玩具の馬は室内での遊びなので、奔放な射手座らしさは却って室内の遊びでも気持ちの面で深い楽しみが感じられるように、内面での探求が多くなることです。金星は復活祭の日の出のように、生命がもう一度湧きあがること、それをみんなに振りまくことなので、太陽では自らの内面を楽しんで探求することに同じく、ノーアスペクトなのでぼんやりと全体を覆うようになります。

 火星は木星とオポジションなので、蟹座29度(29度は、今の星座と次の星座の価値観が混ざり合う)では蟹座の同調と獅子座の独尊がせめぎ合うような情熱が、蟹座的に人々のいる三角形を引き上げようとしながら、獅子座的に一人で突き抜けていってしまう、その狂熱を煽り立てるのはインドのヒーラーのように回帰せよという木星なのではないかと思う。

 あと、カンディンスキーの絵の特徴として、他の抽象画に比べて、エネルギーの集約点がある感じがして、たとえばこの「黒と白」をみてもらえると、大きなアメーバ状の生物(?)がいます。

 カンディンスキーの理論では

白:音楽における休止(一時的に中断はするが、決定的な終結はしない)、可能性に満ちた沈黙、若々しい無、氷河期の地球の響き
黒:可能性のない無、死を意味する永遠の沈黙、音楽的には完全な終結

黄色:中心から光を放って近づいてくる、地上の色で狂おしい濫費
青:眼が吸い込まれるように遠ざかってゆく、天上の色で非人間的な悲哀と厳粛さ
緑:黄色と青が混ざって生まれた色で、完全に不動な性質、もっとも落ち着いた色、疲れた魂に慰安を与えるが、しばらく経つと退屈を感じさせる、疾風怒濤の春を抜けて自己満足的な静寂に帰る夏
赤:黄色の軽さがなく、エネルギーに満ちてはいるが自己の内部に目的を意識して沸騰しつづける色、汲めどもつきぬ力を持つ
橙:赤と黄色の混ざったもので、赤の内部での運動は少しずつ拡散しはじめる、自分の力に自信を得た人のような
紫:赤と青を混ぜたもので冷却された赤といえる、病的で悲哀を懐いている、老婦人ふうの

とされていて、上・左は軽くて動きやすい、下・右は縛られているように動きづらいです。このアメーバは黒い沈黙の中で、次の声を出す機会を待つように白くうごめきながら、胴の真ん中が右下の重々しいところに繋がれていて、頭(たぶん右上のあたり)はもう一度左上に戻ろうとする絵で、下のほうにある鰭は白がどこまでも薄くなって黒い闇に透けること、このアメーバ自体が音のない空間にいて、一種のこの世のものじゃない感じがあります。

 ここまで随分とカンディンスキーの理論面に合わせて読んできたけど、射手座に個人天体三つという感じだと、とにかく探求者的な雰囲気が出ている。でも、サビアンまで含めて読んでも、けっこう惑星の意味が似てしまうことが多くて、表現する語彙に悩むホロスコープで、もしかすると理論を知っているせいでそれに引きつけて解釈しすぎということもありそうです。

 ということで、最近思いついたもう一つの読み方で、今度は作品面から探っていきます。

2ハウスと5ハウス(木星と火星)

 2ハウスは才能やどのような方法で売れるかなので、サビアンは射手座28度 美しい小川に架かる古い橋です。橋は川を渡るようにどこかへ行くこと、射手座の末期度数なので射手座らしい遠くへの思いよりも山羊座らしい古く安定した方法で、それでもどこかへ行きたいという意味だと思っていて、その背景には木星のインドのヒーラー(文明人がみえなくなってしまったものが感じられる)がいます。

 5ハウスは表現や箱庭遊びのような場所なので、そのサビアンは牡羊座22度 欲望の庭へ続く門です。表現することは(牡羊座的な生命の肯定が)人間のもつ多彩な欲望が横溢している園に誘う門を作るように現れるらしく、その背景には火星:蟹座29度で蟹座的な同調と獅子座的な独尊性が混じり合う がいます。

 たぶんですが、表現すること(5ハウス)は、本当に豊かにして多彩すぎる生命を守りつつ燃やすことで、その働きはみずからの才能(2ハウス:未開とされるような古い越境で文明人が失った感覚を戻させる)に迫られて(180度)為されるだと思う。欲望の園だけだともっと即物的にもなりそうだけど、火星の独尊と共同体への貢献は、木星(インドのヒーラー)に差し迫られてすることなので、インドのヒーラーのようにみずから成ることで人々に貢献もするような情熱になります。人間の三角形の論が多少粗削りで熱っぽくて、飛躍的なのはやはりここでも火星・木星の感じが出ています(なので、先に書いた火星・木星アスペクトの読みは、やはりこの方向性になるらしい)。

3ハウスと4ハウス(天王星と海王星)

 3ハウス(自らの周りのことを知る方法など)のカスプは水瓶座13度:バロメーターです。水瓶座らしく傍観的な観察者のように世界をみていそうな3ハウスで、その裏には天王星:月夜の妖精のような自由すぎるロマンチシズムがあります。偶然的な、一抹の感情に彩られた計測器群みたいな感じで周りをみていそうです。

 4ハウスはカスプが魚座24度:有人島です。魚座的に人々が不思議な調和の中で集まっている大きい広がりで、その裏には海王星:国の支配者があります。たぶん

而不知其所為使。若有真宰、而特不得其朕。可行己信、而不見其形、有情而無形。百骸・九竅・六蔵、賅而存焉、吾誰與為親?汝皆説之乎?其有私焉?如是皆有為臣妾乎?其臣妾不足以相治乎?其逓相為君臣乎?其有真君存焉?如求得其情與不得、無益損乎其真。(『荘子』斉物論篇)

しかし全てをそのようにしている者のことは分からない。もし真宰(本当の主宰者)がいるとして、それでも全くその朕(兆し)を得られず、信じられるものだったとしても、その形は見えず、その情(働き)はあってもその形は無い。百の骸(骨)・九つの竅(穴)・六つの臓はすべて賅(備わっている)として、私はその誰と親しいのか?君はそのどれも好むのか、好みがあるのか、もしくはその皆は臣になっているのか、皆が臣だと治まらないので、逓(入れかわりで)君と臣になるのか、もしくは真君(本当の君)が居るのか、それが分かっても分からなくても、今の姿には無益損(役立ちもしなければ害もない)。

のような感じで、多くのものを統合している者がいるようで、4ハウスなのでそれが落ち着くという意味ですかね。

 この3ハウスと4ハウスの関係は、天王星と海王星の関係のようにスクエアなので、4ハウスのように不思議なものに支配された領域が、ふっと身の周りにある気まぐれな感情で揺らされる(スクエア)と読みます。この揺れが一種の緊張感になって画面に凝ったのがカンディンスキーの抽象画だとすると、さきに書いたエネルギーの集約点はそのようにして生まれているのではないかと思う。

 これは「深まる衝動」という作品なのですが、エネルギーは明らかに中心の赤い丸に集中している。周りは蒼翠の藪のような落ち着きで、その中に鬱勃とした赤が置かれて、それでも上から濃い青に抑えられて、重く縛られた方に圧し込められている。この蓄積された赤の勢いは、いずれ発散されるときを待って、衝動として内へ内へと深まっていく(青い丸のほうがわずかに大きいので、赤い丸は青を押しのけられない)。

 それでも左上の最も軽くて柔らかいところにあるピンクの丸(ピンクはカンディンスキーの理論では、けがれのない喜びの色)と響き合い、いずれその位置に上ろうとしているのも見えて、これは一人の人の内面であると共に、人々が集まったときの一つの様子でもあり、その周りの種々の色(感情)と微妙に調和しつつ、その中で一つの赤が鬱勃と動こうとする姿にもみえる。

 カンディンスキーの絵にある集約点は、大体がこのやや調子の異なる色によって生まれているようで、さきのアメーバでは頭の部分に大きい白があるとともに、たとえその頭が抑えられても、その脇から小さい頭が出てきて生えようとする、その生成の瞬間にこそもっとも濃い白が使われている。

 落ち着いている空間は一つの秩序によって支配されていて、まとまりはあるけれども、そこに流れ込んでくる予期せぬ感情は、もしかすると身の周りの人々の様子なのかもしれないです(もっとも、ここでは海王星から天王星にアスペクトは向かうので、その揺れを一つの秩序にしているみたいな感じになりそうだけど、最後は月に戻って来るので、海王星と合だった月の安定への逸りを、天王星の予期せぬ感情経由の秩序が再度揺らしてくるみたいになりそう、細かく読みすぎだけど)。

4ハウスと10ハウス(海王星と水星)

 4ハウスはさきに書いた有人島で、その裏には不思議な秩序に支配された落ち着く空間があります。

 10ハウスは乙女座24度:メリーさんの白い仔羊で、乙女座的な実世界での信頼関係がかなり完成していて、どこに行くにもついてくるほどみたいなイメージです。その裏には水星:岩とその内部で形成されるもの(水星なので知性)があります。

 カンディンスキーの著書を読んでいて感じるのは、具体的な点や線、色の与えている印象についてはかなり厳密にして論理的な説明がされているのに、とても幻想的な世界をみせてくれる(水星・海王星ソフトアスペクトっぽい)という感じがして、人類は一つの三角形でその頂点に立つ者は……系の話になると急に勢いが良くなって、その分どことなく厳密さや理論性はない話になりがち(火星・木星ハードアスペクトっぽい)で、それが一冊の本の中に同居しているのが魅力的だったりするのは、これに由来するのかもしれない。

 という余談は置いておき、自己の内部にある深みをさぐるような知性(射手座の水星は、水星にしてはやや遠い話が好き)は、海王星の不思議な秩序を実際に定義したり、理論として整えるほうに使われて、それはさらに月の安定した世界をも支えると読めます。4ハウスと10ハウスも上手く繋がっているので、内面(4ハウス)と一生の事業(10ハウス)は緊密に結びついていて、その一生の事業とは今まで感覚的に描かれていた絵を、ある程度は内面の秩序を表すために理論化して、みずからもそういう作品を作っている、と読める。

 これを感じさせる作品は、(強いて云えばすべてそうなのだけど)とりあえずこの二つです。

 一つめは「カウンターウェイト」(カウンターウェイトとは、大きいクレーンの腕が重くなりすぎると倒れるので、その逆につける重りのこと)。軽薄なものをじっと睨め据えるような、どことない不気味さと深淵のような落ち着きのある目みたいで、重い紫は動くときを待っています(紫の目の上のほうに濃い色が入っているのも、却って深みを与えている)。たぶん、この紫は深い悲哀に沈んだ目で、重い淵に沈みながら、力を蓄えて再び世界を呑もうとしている。

 二つめのこれは「コンポジションⅥ」。どうやら大洪水を表したものらしいのですが(カンディンスキーの理論で読んでみると)黒いものが広がる世界に、新しいものは西北(右下。ホロスコープにも通じる)からあふれてくる。西北には高い楼があって、そこにいる神は宇宙に新しい輝く水を流している。舊い世界は襞となって隈へ隈へと折り畳まれ、一瞬の光に満ちた混乱が流れて漂うような様子と読むと、大洪水の濁流というより光の奔流にして、たまらなく穏やかな感じの水が手前にある。調和に満ちた世界がやってくる予感――。

○参考資料
『カンディンスキー著作集1 抽象芸術論』西田秀穂:訳
『カンディンスキー著作集2 点・線・面』西田秀穂:訳

 ちょっと今回の記事はふざけがすぎていると思うけど、どこまでも繰り返される象意がどう読んでもそうなってしまうというか、なんならブラックムーン・リリスの山羊座1度:賛同を求めるインディアンの酋長も、ばらばらのものを一つの秩序のもとに統合する、ある種の緊張を望むと読めてしまうくらい、その意味が強いホロスコープだったりする……(2023/7/17追記:今からみると、ハウスカスプのサビアンは失敗かも)

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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