美術

ティントレット 炫耀と神秘としての世界

 マニエリスム美術とホロスコープ、とりあえず最後は情熱的で荒々しさと優美さを兼ねるティントレットです。元々、この記事が書きたいと思って始めたのですが、ものすごく時間がかかる連作になりました。それにしても、凄まじいというか、線の形が激越です。(ハウスはおそらく海外で推測されたもの。あまり深く読まないでおきます)

 上下に傲然と聳えるTスクエア、それを彩るソフトアスペクトたちという形は、艶やかで重い色彩とごつごつした豪宕さの合わさった画風を思わせるのですが、より色々と読むために、まずはTスクエアとそれに絡むアスペクトを見ていきます。

火星:蟹座3度 毛深い鹿を先導する毛皮に包まれた男
木星:天秤座6度 数多の結晶になったある男の理想
土星:山羊座6度 暗いアーチ道と底に敷かれた十本の丸太
冥王星:山羊座4度 大きなカヌーに乗り込む一団

金星:乙女座7度 ハーレム

 とりあえず、最初に読んでいく作品はこれで。

 これは「聖マルコの遺体の運搬」という題で、アレキサンドリアから9世紀のヴェネツィアの商人たちが聖マルコの遺体を盗み出す様子を描いた作品なのですが、アレキサンドリアの教会が取り壊されて、奥にある柴の山で聖マルコの遺体が燃やされそうになっている混乱の中での出来事です。

 まず、今までのマニエリスムの画家と比べて、異様に描写が具体的です。前回のブロンズィーノを思い浮かべてもらうと分かりやすいのですが、ひとつひとつの人物が寓意を込めて描かれていたり、複雑な内面の葛藤などを形にしたミケランジェロの人物像とは異なり、それぞれが実際の動きの中に置かれていて、駱駝に遺体を載せる人・ぴんと張りつめた手綱・嵐に怯えて逃げる人など、寓意を絡み合わせては作れないような細かい描写がされています。

 このTスクエアは火星に係わるので、火星の意味が大事になるのですが、この火星は蟹座3度なので厳しい寒さの中にあっても、みずからの大事なひとを守るために意思をもって動く人、という意味でしょうか。(毛皮を着るほどに寒い森の中を、人間からするとよくわからないけど、森のことをよく知っている鹿についていくように、わからないなりに動いている様子、みたいにくどい読み方をしてます)

 これにハードアスペクトが多くなると、人間の劫運に流される様子みたいになりそうですが、土星・冥王星はその現れ方をしていると思います。土星のサビアンは、アーチ道は木々が暗く蘢々としている様子、丸太は険しい道の階段だと思うと、山羊座の重々しいものを背負いつつ暗い道を行くような面を象徴していると読んでみます(これは解釈しづらい度数に思う)。

 冥王星は、みんなで大きいカヌーに乗り込むように人間がまとまって生きることで、冥王星と土星が合なので、人はまとまって生きることが求められるのに、それはどこまでも難しい道でもあるという意味ですかね(ちなみに、火星・冥王星オポジションはミケランジェロにもあって、この重さと激しさが目立つ作風は、重さ:冥王星と激しさ:火星なのかも)。

 ここに、そのどちらも否定するように木星が割り込んでくるのだけど、天秤座6度は他者との関わりから理想となるものを多く取り入れては結晶化していくという様子とすれば、この木星を象徴するエピソードを一つ紹介します。

 ティントレットは一生をほとんどヴェネツィアで過ごしたのですが、その工房には「ミケランジェロの素描とティツィアーノの色彩」という対聯が掛かっていたということで、ミケランジェロの大きく拗れうねるような重々しくて兀然と聳える姿に、ティツィアーノの優艶にして明麗な色彩を重ねれば、神々しき「神の絵画」が生まれる(『ティントレット画集』より)という意味を込めています。

 これをみても、ティントレットはかなり同業者の技を意識していて、それらを組み合わせて「神の絵画」を作ることは、人間がまとまって生きることは求められるけど、それは暗い山道のように険しく、それでもどこに行くかわからない道を皆がそれぞれ歩いている中に、苦しい中に現れる救いのように荒々しくも割り込むと読めそうです。

 これはティントレット版「受胎告知」。殴りつけるように入ってくる天使、その激しさと輝きに驚くマリア、縺れ合う随身の天使たちについての解説があるので引用します。

 あまりにも大いなる愛を引き受けることが、女性にとって、必ず自己の滅びであることを洞察した者は、マリアがむしろ、何故、拒否しなかったのかをいぶかるであろう。マリアは、自己をも、我が子の運命をも見とおしていた。にもかかわらず、恐れ、自らあやぶみつつ、神を愛する故にこそ、あるいはただ神を信じるゆえにのみ、平俗な自己にとってはおそらく耐えがたいその役割を身に受けたのであろう。そうとすれば、如何ほどの苦悶が彼女の顔にあらわれたとしてもすこしも不思議ではなく、天と地とのこの出会いが破滅的な大音響と共におこなわれたとしてもなんのふしぎでもない。(若桑みどり『マニエリスム芸術論』327-328頁)

 ティントレットの暴力的に雪崩れ込んで来る天使の群れ、驚いて倒れそうになるマリアは、揺れ動いているような画面(消失点が右寄りにずれている)の中に置かれていて、この緊張と衝撃はTスクエア的です。

 さらに天秤座はオーバーロードなので、太陽と水星があって、それぞれのアスペクトを読むと全天体を読んだことになるので、太陽からみていきます。

太陽:天秤座16度 流された船着場
月:獅子座17度 ベストを着ていない聖歌隊
天王星:牡牛座12度 ウィンドウショッピングをする人々

 太陽は天秤座らしく周りのことを気にするけど、そのせいで流されるような目にも合うほど深入りすること、月は日常の畏まり過ぎない中にも少しだけ神聖なものが垣間見えること(これは獅子座の求心と水瓶座の遠心が混ざり合う高揚感でありつつ、後にも書くけど、とてもヴェネツィア的な風景)だとすると、狭い街の中に人々が絡み合う中で、多くは卑俗なことなのに、ときおり神聖なものにも会うけど、ひと時の垣間見はまた水路や古い鉄の門、入り組んだ庭園などに遮られて見えなくなっていく、その水の耀きのような神聖さをいつも感じていた(月と太陽なので、表も裏もそんなことを思いながら過ごしていたのかも)と読みます。

 心の中では垣間見る神聖さを求めながら、外に出ると雑多なものに巻き込まれる街としてヴェネツィアを感じていたのがティントレットの感性だと思うのですが、この二つを乱すように入ってくるのが牡牛座天王星です。

 人間はそれぞれ分かれながら、心の中(月)で神聖な風景を垣間見ようとする、そこに現れる「大運河とあやなす小運河、水は緑、青、銀にして、その銀泥を底に溜めて大輪の白薔薇の光を湛える街、其が曲がり角の裳裾の薄桃色を散らしたるあり、淡青色に染められたるあり、藤色に塗られたるありといふ骨董の山。そはざらざらと古い街に積み重ねられて、人と人とを隔てけり。この孤独と憂愁に、逸楽と神秘を重ねたる街の名を呼びたまへ」という天王星はウィンドウショッピングのように外の物の豊かさを感じる牡牛座的な楽しみを経て、やはり人と人とは天王星・月のように分け隔てられながら、それぞれに神秘を観する意味でしょうか。

 ティントレットは「蠟や粘土で小さな人物像を作る訓練をよくやっていた。まずぼろ布をそれらに着せ、人体の各部分がよくわかるようにそこに襞を寄せた。さらに板と紙でできた小さな家や遠近法仕掛けの中にそれらを配し、小さなランプを窓の明かりのようにかかげて、それらに明暗を帯びさせたのである」(『ティントレット画集』93頁)とあるように、街の中にいる人々を雑多にみえながら一時の美しさを感じたように描く方法を探していたようにも思える記述があって、この感覚はおそらく光の描き方だけでなく、人間や街の水路のつながりまでそう見ていたと感じさせる作品をみていきます。

 これは「青銅の蛇」。いままでティントレットの絵を幾つかみてきたけど、まず思うのは空間のほとんどが異様に暗いです。ミケランジェロの「最後の審判」も混沌とした印象はありつつ、空間のほとんどは一応明晰に描かれ、様々な動きの人々が均質に置かれていたけど、ティントレットは画面の一角が照らされていて、多くの人々が苦しんでいるという構成が多くて、この「青銅の蛇」の他にも「岩から水を出すモーセ」「マナの収集」「最後の晩餐」などに似たような光の入れ方をしているのですが、この一点から差す歪んだ光が街の中の垣間見の神秘劇、ヴェネツィア的陰翳ではないかと思う。

 この絵は、エジプトからモーセに率いられて脱出する民たちが、そのあまりの道の長さと険しさに、これならエジプトで奴隷として生きたほうがましだという人が多く出たことに、神が怒って炎の蛇を遣わして、その毒蛇を鎮める方法をモーセが問うと、青銅で蛇の像を作ってそれを掲げよと云った場面なのですが、やや左上のほうで木の枝の先に掲げられているのが蛇の像です。

 この蛇の像の周りから差す光、その神秘劇を囃し立てるかのように上に現れた天使の群れ(中にはあまり敬虔でない表情の天使もいる)と這い回る炎蛇に咬まれて悶える人々、その人々の中でも既に熱が回った者、蛇を抑えつけようとする者、今咬まれようとして驚き倒れる者、諦めて倒れる者などがいて、一方でモーセのほうを見るように呼びかける者、子供を守ろうとする者(もしかすると、先の蛇を抑える人はその二人のために抑えているのかもしれない)などもいて、一つの街を歩くときに見る人間のさまざまな表情にすら見える。

 そして、やはりそれぞれが微妙に絶たれつつ繋がるような、滑らかでない関係をもっていて、あるまとまりは共に諦めきっていたり、ある二人は互いに関わらないのに同じ方向を見ていたり、人に蛇を押し付けているように見える者もいたりと狭い関係の中で複雑に絡み合う。この絡み合いはブロンズィーノがどこまでも寓意の絡み合いにしていたのに比べ、ティントレットは一人一人が感情や感覚を持っているようにもみえて、ミケランジェロの雰囲気にも近いのだが、ミケランジェロは一種の精神的な空間を舞台にしているのに比べて、ティントレットは本物の街にみえるような歪んだ光、ずれる見え方、不規則な並びと実際に近い動き、ほとんどが暗いものばかりという感じ方があると思う。

 最後に金星、水星、海王星を読むのですが、この三つはTスクエアの緊張を包むように広がるソフトアスペクトという点で似ている。まずは金星。

金星:乙女座7度 ハーレム
水星:天秤座29度 すべての知識に橋をかけようと模索する人類
海王星:水瓶座25度 右の羽がより完全に形成されている蝶

 金星のサビアンは、乙女座のように貢献することを知ってはいるけど、それは後宮の狭い関わりのように互いに依存したり、関係に歪みがあっても外からは入れない、でもその形で互いに支えている面もあるという美意識で、それが先の冥王星・土星・火星の張りつめたものを彩るとでも読みます。むしろ、そういう歪んだ関係やらで絡められた街の中に、束の間の神秘劇がある(太陽は生き方だとしたら、その歪んだ関係の中で均衡を探るように生きて、月は内面とすればその古びた街の歪みの中に僅かな耀きがある落ち着き)という大きい意味です。

 木星はTスクエアで芸術を作るほうに緊張を生んでいるとすれば、金星は同じものを感じていながら、街の中で癒しのような美しさをみて、一方では作品の材料としても一部は流れていくというのはあり得るかもです。

 情熱的な宗教画を好んだとされるティントレットは、おそらくミケランジェロと同じように冥王星や土星が落としてくる「人間は集められたときに、この暗い世界をどうやって生きていくか」という問いに、ミケランジェロは人間の感情がどうにかして神の側に到る様子を描いたのとは別に、ヴェネツィアの人らしくその街にある風景と人々の様子から一つの答えを探していて、どちらも火星が重みを受けている様子は情熱的でありつつ、ミケランジェロはトランスサタニアンが多く絡むのでより天上的、ティントレットは金星や木星が絡むので俗界の美しさも否定しない面がある。

 俗界の美しさを否定しないティントレットは、最後の晩餐を描くにも食べ物の籠を漁る猫をもっとも前に描き、食べ物を盛り分ける人は大きく描かれ、上には遊びに来たような天使たち、それぞれに圓光を放つ人々という描き方になる。火星に係わるこの葛藤は、あるいは金星に流れて古い街の景色を彩り、あるいは水星に流れてそのような葛藤こそが人間の普遍的な知性になり、水星は海王星(左:感情もあるけど、右:秩序がより完全にできている蝶)と合わさって葛藤(冥王星・土星とオポジションの火星)と幻想(海王星)が一つになり得て、人々の話すこともみな天上の言葉のように僅かな間だけはみえると思ったのかもしれない。

 最近思ったことなのですが、宗教美術は何を信じるかと並んで、どのように信じるかということが大事だと思ったりもしたのですが、ティントレットのホロスコープを見ると、どこまでもヴェネツィアの街が育てた作品だと感じます。(リリス:蠍座29度 ミューズの天秤は、双子(蟹座の終わりなので、蟹座と獅子座の価値観を比べる)の間のせめぎ合い、傾き合って、それでもまだ蟹座に残りたいとする想いを作品の裏の主題にするとすれば、ある意味ではここまで書いたことを大きくまとめているようにも見える)

余談:ヴェネツィアは水の迷宮である、という詩や作品は多い。「大運河とあやなす小運河……」の一節は、アンリ・ド・レニエ『水都幻談』青柳瑞穂訳よりさまざまな詩をつなぎ合わせて作ってます。骨董は一つだけあるよりも、骨董屋に積み重なって見るから美しいと思えるような、ぼんやりと痺れた気持ちになってくる作品で、ヴェネツィアの一つの魅力は偸安と頽廃だけど、ティントレットのヴェネツィアはやや独特だと思う。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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