創作・エッセイ

空海と象徴、兩面の神々

 この記事だけではあまり占星術にかかわる内容ではないのですが、近いうちに書く記事の伏線、あるいは雑談として。

 今年の11月の初めに京都まで旅行にいって(10年ぶりの京都……)いろいろな神社仏閣をめぐり、その中で東寺にも行ってきたので、まずはその感想を。

 東寺ではとりあえず講堂の立体曼荼羅が見どころなのですが、その中でも空海がつくった当時のまま残っている像としては、菩薩部と明王部があって、これが薄暗い中で見たからではないと思うのだけど、ひとつひとつ微妙に表情がちがっているように見えるのですね。

 一応、密教の仏像の作り方には「儀軌」という決まりがあって、腕の数、表情、持ち物などが細かくさだめられているのですが、空海がおそらく細かく作り方を指南したと思われるその像たちは、どれも微妙に表情がちがうような気がするのでして。

 とりあえず菩薩部を例にすると、東寺の立体曼荼羅に置かれている菩薩像は五体で、中央に金剛波羅蜜多菩薩、そのまわりを囲むように金剛薩埵菩薩、金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩というふうになっています。この金剛~菩薩というのはあまり馴染みがない名前ですが、一部は金剛法菩薩が観音菩薩、金剛利菩薩が文殊菩薩だったりと古くからある尊格に由来をもっていたり、あるいはもっと抽象的な、たとえば如来を供養するための香・華・燈・塗、もともとは悩みをもたらすとされた欲や傲慢さなども菩薩にあらわされた金剛香菩薩、欲金剛菩薩などと、すべて金剛~菩薩の形に均質化した感じがあります。

 このような捉え方だと、普通の人が作るとつい持ち物くらいでしか区別できないように彫ってしまいそうなのですが、――たぶんこれは空海の感性だと思うのですが――金剛業菩薩は北方に控えてどことなく恐ろしげな表情、金剛宝菩薩は南にいてどことなく豊かそうな表情、金剛法菩薩は静かでどこか沈んだような、金剛薩埵菩薩は闇に包まれていてやや不気味で表情がつかめない感じがあったりと、ほんとうに微細な空気感のちがいがある(と思う)。

 均質化された曼荼羅(空海がもたらした密教はひととおり理論的に完成されている時期だった)の中に、これほどまで細かい雰囲気の違いを感じていた空海の感性は、そういう方向に豊かだったのかもしれない、という話が京都旅行の一つの感想でして。

 さらに、それを遡ること半年、4月の初めごろに岐阜の飛騨高山にも行ったのですが、ここには千光寺というお寺で、まだ『日本書紀』の時代、飛騨に住んでいた豪族(あるいは土着の神)と思われる両面宿儺(顔が二つ、手が四本あり、その四本の手はそれぞれに弓を扱う鬼神とされた)を円空が彫った像があって、それをみてきたのですが、撮影禁止だったので写真は載せられないのが残念ではありつつ(もっとも写真でみると、少し雰囲気が違うけど)、興味があったら調べてもらうとわかるのですが、一つの顔は堂々としていておだやかそうなのに対し、右上にある小さい顔はやや悪逆そうな、傲岸な表情をしていたので。

 ちなみに千光寺は円空仏がかなり多く所蔵されていて、両面宿儺以外にも白山権現や十一面観音菩薩などもあって、個人的な感想になるのですが、円空仏は顔が二つある作品はどれも傑作だと思う(それ以外にもいい作品は多いけど)。

 たとえば円空の白山権現は、下にあるふつうの顔は穏やかそうなのに対し、上にある小さい顔は厳かだけど堅く締まった白山の雪を思わせるようなどことない冷たさがあって、人間に対してふだんは穏やかな面を向けているけど、いざとなると冷酷な自然の風景をみるような気がして、それと並んで惹かれたのは、円空の両面宿儺は手に斧をもっていて、明らかに山の生活者の姿なんだよね。一方で、それ以外の人が作った両面宿儺像も飾られているのだけど、これらはみな鎧や弓をもった姿で、どうやら『日本書紀』の記述を参考にしているのがわかります。

 両面宿儺を山の生活者として彫った円空は、きっと現地の人に自分たちの神として祀られることを考えて彫ったのだろうし、その表情は力強さとともに恐ろしくて人間など物ともしない荒々しさを帯びている。それを二つの顔にわけて表現したのは円空の感性だと思う。

(仏像のそれぞれの顔についても、先述の儀軌では細かく決められているのですが、そこに冷酷さや悪逆さを入れた円空の感性は、木をそのまま生かして荒々しくも山の気を感じるような作風に通じるようにみえた。あくまで主観だけど)

 円空と空海の作品をみていると、宗教とは何を信じるかと並んで、どのように信じるか――も大事なのかもしれないと思う。二人とも何を信じていたかといえば仏教だけど、空海は均質化された宇宙の広がりの中に、それぞれの精神が象徴に吸収されながらもそれぞれにゆがみや捻じれを残しているようにこの世ができていると考えていて、円空は木の形がつくられていく中には自然の猛威と恵みがたまっていて、それが仏像になったときにはやはり荒さと柔らかさが二つの顔から感じられるようにしたい、というようなことを無自覚にしていたのかもしれない、という記事です。

 これは後日あげる宗教画家についての伏線、あるいは補遺。

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ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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