サビアンシンボル

詩歌と占術、あるいは優美と晦昧の庭園美

 サビアンシンボルは詩歌でもあるけど、占いに詩歌が取り込まれたときに起こる文章面での現象について、洋の東西を問わずに思っていることを書きます。

 まず、サビアンシンボルについてなのですが、例えばミニトラインでこのような組合わせがあって、

太陽:蠍座9度 歯科の仕事
土星:山羊座14度 花崗岩に刻まれた古代の浮き彫り
海王星:蠍座11度 救助される溺れた男
冥王星:乙女座8度 最初のダンスの練習

 太陽は海王星に近いので、公的な場ではやや身を守る結界がぼやけ気味、それゆえやや困った人に頼られがち(ちなみにアセンダントと近いので、よりそう見られやすい)というサビアンを含めた解釈で、サビアンなしで海王星・太陽の合だけだと理想主義、芸術を仕事にするなどもあり得るけど、海王星のサビアンで人間関係にその気はないのに深入りしてしまうのが近いと思われ、その深入りしてしまった出来事は歯科の仕事のように長い時間をかけても根柢から治そうとするのが太陽(意思)、冥王星はダンスの練習を重ねるうちに少しずつものにしていくような地道さ(乙女座)、土星は古代の浮き彫りに刻まれるような本質や道理のようなもので、多少は厳しくはあっても質実な支え方ををする(山羊座)という意味になりそうですが(うちの母親のホロスコープなのですが、電話でそういう話し方をしていたので、サビアンを見て感動した記憶がある)、このときサビアンの原文に補われた語をみていくと、

歯科の仕事(のように、長い時間をかけ根柢から治そうとすることを)
最初のダンスの練習(を経て少しずつものにしていったり)
花崗岩の浮き彫り(のように厳しくも質実で本質的なものが支える)

のような作りになっていて、途中の論理構造がとても省略されています。

 これをふつうの文学としての詩とどのように違うのか、最近、北原白秋を読んだばかりなので、白秋の作品から引用してみると

  ふる雨の
 一
ふる雨のひとつひとつも
こまかには観る人ぞなき。
ひとすぢの雨はひとつぶ、
松の葉に玉とむすぶを。

 二
ふる雨の音に堪へつつ
おもしろと聴くきはぞよき。
松の葉にふりてかかるを、
椎の葉に濡れてかかるを。(『水墨集』より)

  蔦
怒ニ燃エテ蔦カズラ
ヒキ挘(モギ)リツツススミユク、
崖一面ニ蔦光リ、
日ハ燦爛ト音モナシ。

光耀(カガヤキ)ノ深サヤ、
苦シサヤ、我。(『白金之独楽』より)

 どれも作品にある言葉だけで風景も感情も描き切れるのが感じられると思います。というわけで再び占いにおいて詩歌がどのような特徴を持つかなのですが、つぎは東洋の例として『易林』をみていきます。

(知らない方のために『易林』について簡単に書いておくと、陰陽の組み合わせ64種でさまざまな自然現象を描いたのが『周易』で、前漢の焦贛(しょうこう)という人がその64種の自然現象がそれぞれ別の現象にどのように移っていくかを詩で描いたのが『易林(えきりん)』です。『易林』の注釈は清末~民国期の尚秉和(秉:ひん)の説に依ってます)

 まず、天から天に変化する(つまり変化しない)ときの例で。天はからりと晴れた空のように陽だけでできていて、どこまでも漠々と広がっているのがずっとつづいている姿が天から天になっていくとき、遮るもののない砂漠の空みたいな感じです。

道陟石阪、胡言連謇。譯喑且聾、莫使道通。請遏不行、求事无功。
道は石阪を陟(のぼ)り、胡言は連謇(もつれ)ている。譯は瘖(喋れず)且つ聾(聞き取れないようで)、道通(話が通る)ことはない。請(もとめ)は遏(さえぎ)られて行われず、事を求めても功なし。

 天は硬いもの、高いものなので、それがずっとつづく様は石坂を陟るようで、乾は西北を表すので西北に住んでいる遊牧民(胡)の言葉だけで話されるとうまく聞き取れず、訳せない。さらにずっと天の姿がつづくので、それが変わることもないから、求めていることは行き詰まっているというのがざっくりとした解釈です。

 そんな感じであと二つくらい例を。

 つぎは井(水が上、木が下にある様子を、木桶が水を汲みあげる井戸に喩えた姿)が蒙(山が上、水が下にある様子を、低く霧がたまっている山に喩える)になっていく様子について。

跛躃難歩、遅不及舎。露宿澤陂、亡其襦袴。
跛躃(ふらふらとして)歩きづらい、遅れて舎(宿)まで及(つ)かない。澤陂(水辺の坂)で露宿(野宿)して、襦袴(着物)が亡(濡)てしまう。

 霧の立ち込める山のなかには震(動く)という意味のかたちが含まれているのですが、その上に坎(凹んだ土地)があるので、歩きづらい道(たぶんぬかっている)に引っかかってしまうと夕方までに宿に着けず、山の入り組みにとどめられて、震(霧の立ち込める山に含まれている震は青年という意味があり、襦袴:青年の衣服)の上に水がある様子、井戸を枯らさないようにゆっくり使っていると次第々々に雲行きが怪しくなってきて、ゆっくりしすぎると危ないので旅に出ないか無理な道はやめるみたいな意味になります(たぶん)

 もう一つ、井(ゆっくりと井戸を使う)から震(雷が騒ぎ驚く様子)になっていく詩。

游魂六子、百木所起。三男従父、三女随母。至已而反、各得其所。
魂を六つの子に游ばせれば、百木の起るところ。三つの男は父に従い、三つの女は母に随う。已(十二支の巳)に至って反(返る)ので、それぞれ其の所(居る所)を得る。

 震は激しく動くこと、ゆっくりと水を出していた井戸がばしゃばしゃ(震々)とその水を多くの木(百木)にあげること、その様子は密かに生命が育まれるようで、(易では長男、次男、三男、長女、次女、三女を表す記号があって)それぞれが井戸・多くの雷に含まれているので、育てられる木は多く育つのですが、巳(東南あるいは夏の初め)に至って、三つの男と三つの女を従えていた父(震:東)と母(巽:井戸の木桶、東南)はそれから先は季節の動きについていけない(木を勢いづいて育てられるのは春~初夏まで)ので、それなりの生長に落ち着くという意味です(おそらく)

 少しずつ水を汲みだす井戸が、ざわざわと雷の騒ぐように春の盛りになる様子は、多くの木を育てるようだけど、ある程度育つと一通りの落ち着く時季になるので、多くの枝は絡み合い、動きも落ち着いていくという感じは、最初と最後だけ書いてある文章でどのような様子を間に経るのかを詩にしているのがわかります。

『易林』はもともと二つの自然現象はどのような様子を経て移っていくかを詩にして書いているので、『易林』の詩について「古雅にして玄妙」「異響幽情(ふしぎな響き、ほの暗い感情)」「簡妙」などというのは、古めかしく文辞は滑らかでなく、それでいて重みと格式もあって、ぼんやりと薄暗く、不思議な響きやさらりとして言葉の少ない感じが、深く険阻急峻な文章の形をしているということで、サビアンシンボルをつなげて読むことに似ていて、文学としての詩歌は優美に整えられた庭園を歩くような、占術の中の詩歌は鬱然とした木々や削られたような岩(ふつうの庭園では嫌われるような趣きもある)の圧し重ねられた古い庭園を歩くような感じがします。

 もっとも、文学としての詩歌でも「古雅幽澁」という評語が付けられる作品は、占術の詩歌にも似たような感じになるのですが。

東畔荷花高出頭、西家荷葉比軽舟。
妾心如葉花如葉、怪底銀河不肯流。(八大山人「荷花」より)

東畔(ひがし)の荷の花は高く頭を出し、
西家(にし)の荷の葉は 軽い舟に比(なら)び、
妾(私)の心は葉(蓮の葉)のようで 花は葉(蓮の葉)のようで
怪底(どうして)銀河は流れていかないのかと不思議に思う。

 どうして私の周りでは時間が止まったようなのかと思っているのを云い切れずに壊れたように書いていて幽澁にして古怪。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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