サビアンシンボル

蠍座5度 大きな岩場の海岸

 サビアンシンボルと詩をつなげて読む記事、今回は蠍座5度についてです。この度数は、個人的にはドラゴンヘッドの度数なので、それについても合わせて書いていきます。

 まず、ドラゴンヘッドの意味としては、最近読んだ記事(マーク・エドモンド・ジョーンズがホロスコープを読んでいる……)にあった「感情面での春」という表現がすごく納得できて、春になるとざわざわと雷が湧き出でて、嫰らかい芽を揺らすような激しさと鮮やかさを持っているような感じが、感情的にすごく納得できる。

 逆にいうと、ドラゴンテイルは「感情面での秋」になって、感情的に寂寞とした落ち着き、誰もいない山に一人で残されているような暗い安らぎの世界がドラゴンテイルなのかと思うと、今まで実感のない感受点が一気にわかるような気がしたので、それぞれのサビアンをみていきます。

 ドラゴンテイルの方からだと、テイルは牡牛座5度:開いた墓の前にいる未亡人です。この様子に似ている作品というと、南朝梁・劉令嫺「祭夫徐敬業文(夫の徐敬業を祭る文)」です。

惟君德爰禮智、才兼文雅、学比山成、辨同河瀉。明経擢秀、光朝振野。調逸許中、聲高洛下。含潘度陸、超終邁賈。二儀既肇、判合始分。簡賢依德、乃隸夫君。外治徒奉、内佐無聞。幸移蓬性、頗習蘭薰。式傳琴瑟、相酬典墳。輔仁難験、神情易促。雹碎春紅、霜雕夏緑。躬奉正衾、親観啓足。一見無期、百身何贖。嗚呼哀哉。生死雖殊、情親猶一。敢遵先好、手調姜橘。素俎空乾、奠觴徒溢。昔奉齊眉、異於今日。従軍暫別、且思楼中。薄遊未反、尚比飛蓬。如當此訣、永痛無窮。百年何幾、泉穴方同。

君を惟うにその德は禮にして智、才は文彩と和雅を兼ね、学は山の成(高いこと)に比し、辨は河の瀉ぐに同じ。経に明るきこと擢秀(抜きん出て)、朝に光(耀き)野に振ふ。調は都に逸(すっと立ち)、聲は洛陽に高ければ、潘岳・陸機などの詞宗を越えて、終軍・賈誼などの才人にも過ぎたり。

それなのに陰と陽の既に肇(始まって)、判合(別かれ合い)も始めて分かれ、賢を簡(選)び德に依らせて、夫君に隷(仕えさせる)。外の治は徒らに奉(聞こえ)、内の佐(援け)は聞える無く、幸いに蓬性(蓬々たる心)を移させ、頗る蘭の薰りに習わせ、そうして琴瑟を伝え、墳典(古いこと)をも酬(言い合へり)。仁を輔けることはもはや験(確かめ)難く、神情(おもい)は促(迫め立てられやすく)、雹は春の紅を砕き、霜は夏の緑を凋(萎らせる)。躬(自ら)衾を正して奉り、親(自ら)観ては足をも啓(のぞく)。一見しては期す無く、百身にしても何を贖うのかと、嗚呼哀しい哉。生死は殊ると雖も、情の親しむは一つなり。敢て先の好きに遵い、手ずから生姜・橘の供物を調えるに、素い俎は空しく乾き、奠(奉げる)觴は徒らに溢れ、昔は眉まで斉しく膳を捧げあって持ったのに、今日は異なっていて、軍に従いて暫らく別れるにも、きっと楼の中に思うべきに、薄遊(ふらふらと魂の遊び出でては)未だ反らず、なお飛蓬に比すほどで、此の訣(別れ)に当るようなときは、永く痛みて窮りなく、百年など何幾(何にもならず)、泉穴(死する穴)こそ同じであれ。

 この読みづらく詰まったような文体が却って悽惋な感じがして、この過剰なまでの美化は墓の前にいるときに、まだ春の終わりの花が紅々としているのに、それすらも雹に打たれたかのように萎れ、夏の初めの草の色まで霜に焼かれて根が浮いているように見えるほどのときの思いで全てをみている気がする。

 牡牛座の5度というと、純牡牛座的な感じが一通り終わる度数なので、今までみずからの資質や感覚、財などを楽しんできたけれど、その所有は一通り終わって、新しく得ることはなくなるけど、今まで得たものを深く味わい続けて、多くを求めるよりも深い思い入れを持つことの大事さを知る度数だと思います。

(どちらかというと牡牛座的6~10度は、精神的なものと資質や物がどう関わるかを表すようなシンボルが多いので、その前に持っているものと精神面の関係をほのめかすような繋がりだと思う。ちなみに蠍座6~10度は、第一グループの無条件の同化に比べて、実際にどのように相手と同化するかが示されている印象)

 そうすると感情的なつながりを深く求める蠍座は、5度に至ってその具体性を少し齧り始めることになるけど、実際にどのようにするかではなく、そういうことも大事だねみたいな感じで思い始める(牡牛座5度も、ただ持っているより思い入れが大事と取れる)ことを「大きな岩場の海岸」で表している感性の裏には、たぶんこういう感覚がある。

東臨碣石、以観滄海。水何澹澹、山島竦峙。樹木叢生、百草豊茂。秋風蕭瑟、洪波湧起。日月之行、若出其中。星漢粲爛、若出其裏。幸甚至哉、歌以詠志。(魏武帝「碣石篇」)

東に碣石(大きい海岸の石)を望めば、あわせて滄い海を観る。
水は何とも澹澹(ゆらゆら)として、山や島は竦峙(危うく峙つ)。
樹木(木々)は叢生(むらがり)、百の草は豊かに茂り、秋風は蕭瑟として、洪波(大きい波)も湧き起る。
日月の行くは、其の中に出づるがごとし。星漢(天の河)は粲爛(きらぎらしく)、其の裏(内)に出づるが如し。
幸いなること甚しく至れるや、歌いてさらに志(想い)を詠(歌う)。

 この異様なほどに雄渾にして澹澹(ゆらゆら)と揺らめく大きい力のような詩は、一代の梟雄の想いが揺れては凝り切らずに溢れ出たような波と岩のぶつかり合いになっていて、その岩はどんなに強い波に削られても危うく峙(そばだ)ち、ざらざらとしてちょっと怖いような天の河みたいなすごさがある。

 この想いはきっと、宇宙をみずからの内に呑み込むほどの大きな感情の高まり、すべてを呑み込みたいほどの強すぎる想いが溢れ出ていて、こういう気持ちは海に聳える岩となり、覇者のように何が何でも成し遂げてみせるという気勢の磅礴して激盪(逆巻く)ことはきっとただの情愛だけではない、実際の力まで持つという意思になる。この実際に何かしてでもという重くて大きい意思こそが、次の6~10度でさまざまなことを試みるようになっていくのだと思う。

 牡牛座5度で、何かを新しく手に入れなくても今あるものとその喪失の豊かな重なり合いを楽しめる感性と穏やかな時間だとしたら、蠍座5度は何が何でも成し遂げてみせるという気持ち、梟雄の一生を彩る気魄の凄まじさなのかもしれない。

 個人的に、ドラゴンテイルの雰囲気は何もしなかったり、20代初めくらいまでの時はよく浸りがちだけど、ドラゴンヘッドの感じは最近まであまり好きではなかった(がつがつし過ぎというか……)のですが、最近になってこの魅力に気づき始めたというか、こういう美しさや耀きも人間は持ち得るのかと思っている。この煌々(きらぎら)しくて荒々しい激しさは「感情面の春」が暗い冬の道で、垣根の間に溜まった落ち葉を吹き散らしては、春の雨が叩きつけるように降るようなことに重なる気がする。

 大きい岩場のある海岸は、個人的には秋の終わりの荒れた海ではなく、春の初めの荒れた海、覇主のもっている雄渾で獰猛なのに煌きに満ちた美しさ、みずから前に出ていく強さなのだと思う。覇主もその荒々しさの裏には、きっと人々を乱世から守るという想いがあったのかもしれないし。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

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