実体験

スクエアのねじれ

 最近は易のブログばかり書いていて、そろそろ占星術の記事も書きたいと思っていたのですが、ようやく落ち着いてきたので少しずつこっちも書いていきます。

 今回はスクエアのアスペクトが、実際にどのような形になって現れるかについてなのですが、最近易のブログで書いた記事に、それぞれスクエアの特徴が出ていると思ったので、自分の出生図を絡めて書いていきます。

 まず、個人的な解釈なのですが、スクエアは「ねじれ」のようなものが入ったアスペクトだと思っていて、コンジャンクションの倍加、オポジションの相補、トラインの馴染みの良さ、セクスタイルの斜めを補う感じに比べて、強いて云うなら「変則的なねじれ」のスクエアだと思います。

 たとえばこれは自分の出生図なのですが、スクエアは水星土星、金星天王星、月金星(アウトオブサイン)、太陽火星冥王星の間にあります。

 まずは水星・土星スクエアからいきます。これは双子座水星と魚座土星なので、魚座土星が双子座水星を制している検閲局のような配置です。サビアンをみてみると

水星:双子座18度 中国語を話す二人の中国人
土星:魚座23度 降霊術の現象

なので、水星は双子座的な雑多な知識のつなぎ合わせで物事を表現したり解釈したい(エドモンド・ジョーンズの説では、双子座18度はそれぞれの専門分野についての話をしてお互いに影響し合う中国人という意味になっている。これは中国の詩文・書などで云われる「熔鋳百家、自成一家」的なこと、あるいは書と絵の雰囲気が重なり合っている文人画などのように、雑揉的・通変的な中国人の学問・文化などによく合っている解釈だと思う)けど、土星は魚座23度なので、神秘的なものが実世界にどのように形になっているかという視点を必ず経るように水星に強いています。

 通常の双子座水星だったら、もっと自在に色々取ってきてくっつけて……という感じになりそうですが、魚座土星が合わないと感じたものはすべて削ぎ落しているので、出来上がった文章は魚座的な神秘性や詩などを、双子座的に混ぜ合わせて解釈したものになる、みたいな感じです。

 それを強く感じるのはこの二つです。

10-51  履之震・48-11  井之泰・53-37  漸之家人・39-50  蹇之鼎|易の林 (yilinekirin-zhanggong.com)

15-48  謙之井・19-27  臨之頤・64-22  未済之賁|易の林 (yilinekirin-zhanggong.com)

 一つ目は、個人的に何でこういう解釈になってしまったのか、最もわからない部類の記事です。そもそも注釈にすらなっていないし、時代も地域もめちゃくちゃで漢代の易の話をしているのに、読むために使ったものは日本の室町時代の能楽理論だったりと、ちょっとやりすぎた感じがあります。

 簡単に内容をまとめておくと、易で漸(ゆっくりと升っている水鳥)が家人(内に閉ざしてその中を守る)になるときは、升り始めた水鳥のように若木のときに傷つけられて、まだ根っこが深く張れていないときに傷を受けて華や葉が落ちてしまう(『易林』に曰く「本根不固、華葉落去、更為孤嫗。」)とされている。なのですが、この「更に孤嫗となる」が分からない……。

 そこで室町時代の能楽家 金春禅竹の『歌舞髄脳記』で、山姥(山暮らしの嫗)を演じるときは

  山姥
山さとは世のうきよりも住わびぬ ことのほかなる峯のあらしに

 又、この山姥の本意、おそろしく、物すさまじき心かと思へば、憂(愛?)ある所まじわりて、おさなき態(しわざ)あるか。

この比(ころ)は木々の梢も紅葉して鹿こそはなけ秋の山さと(金春禅竹『歌舞髄脳記』より)

のような気持ちで演ぜよとあることから、この「孤嫗」も山姥のように若木のときに傷を受けて山に隠れている様子かもしれない……という解釈です(雑多なものを取ってきているけど、それらは魚座土星が選んだものだけ、ということです。水星・土星スクエアは口が重いと云われるのも、土星の検閲がかかっているからだと思う。それがどのような検閲かは星座によって変わります)。

 もう一つの記事は、これも同じく時代などは無視してそれっぽいものをつなぎ合わせている(よく云えば融通無碍、悪く云えば安易にすぎる)読み方なのですが、『易林』(六十四卦がどの六十四卦になるかという占いを詩であらわした本)で

華首山頭、仙道所游。利以居止、長無咎憂。
華山の首頭(頂き)は、仙道(神仙)の游ぶところで、居て止まるに利(良)く、常に咎・憂もなし。

を読むときに、現代の華山(中国陝西省の霊山)の伝承を引用して、

華山の落雁峰という峰の上には、仰天池という小さい池があって、その大きさは1mほどしかないのに、どんなに日に照らされても涸れることはなく、どんなに雨が降っても溢れてしまうことはない。噂では、太上老君(神仙化した老子)がこの池の水で、金丹を練るという。

とあるのを、華山の頂は神仙がいるところで……の解釈に用いたり(たぶん当時も似たような民間伝承はあったと思う)、それらがどことなく魚座的な幻想性(サビアンまで含めると、人々の間に漂う精神的なものが、どのように実際の形に現れているかを感じる幻想性。ここでは削り成した花びらのように鋭い山には、人は入ることができず、神仙のみが遊んでいるという心象が、そういう伝承の形になっている。他にも華山の伝承は人を寄せつけない不思議さを帯びている)になっている感じです。

 ふつうの双子座水星はもっと何でも入れていいと思っているけど、魚座土星を経て入って来るものだけになると、通常の双子座水星にはない奇妙な(あるいは変わった・独特な)印象になって、これが天体の現れ方にねじれを加えるスクエアだと思います。

 また、この魚座土星は山羊座海王星とセクスタイルなので、魚座の神秘性は山羊座の伝統的なものに斜めから補われるようになっていて、海王星のサビアンは山羊座26度 水の妖精(山羊座を大きい厳然たる山とすれば、その山のように大きく堅い伝統の中に流れる精神性みたいなもの)で、それに幻想性(海王星)を感じるということになります。

 つぎは、金星・天王星スクエアについてですが、この記事の「余談」のところで書いたことなどはそれっぽいです。

 ざっくりいうと、上に載せた絵は「山高水長図」といって、江戸時代の文人画家 浦上玉堂が描いたものなのですが、この「山高水長」という言葉の感覚は、『易』の風天小畜で「密雲不雨(密雲は雨を降らさず)」という云い回しや、易の象伝にある「雲上於天」「雷電皆至」などに似ていて、気の揺らぎそのものを描いたような言葉だったり、浦上玉堂の他の画題には「山紅於染図(山は染め物より紅い。山火賁?)」「雨後絶涼図」「遁迹入隠図(天山遯?)」「酔月狂花行図」などの四字の組み合わせのセンスがすごくいい題があって、さらに「山澗読易図」という作品もあって、易を好んでいたらしいので、易の文体のような感じで自然をみて山の気を描いていたのかも……という記事です。

 そもそも美術評論という分野が、なんとなく美術(金星的な感覚)と評論(天王星的な奇峭な論理)の組み合わせという意味で、金星天王星アスペクトっぽいのですが、さらに牡牛座と水瓶座もそれぞれ金星・天王星の組み合わせに似ているので、こういう記事になった気がします。

 これが金星と天王星の配置が逆になっていると、抽象的な論理の美的感覚(水瓶座金星)と、物として形になった奇怪な論理(牡牛座天王星)という感じになって、もしかすると評論そのものにむしろ興味を持って、それらの本を集めたり整理して水瓶座金星の好みに合わせていったり……という感じで、打って変わってになりそうですが。

 月と金星のアウトオブサインについては、元々山羊と牡牛は同じく形ある物を重んじるという点で近いのですが、

月:山羊座29度 お茶の葉を読んでいる女
金星:牡牛座3度 クローバーが咲いている芝地に足を踏み入れる

なので、金星はどちらかというと純粋に感覚的に楽しむこと、月は形あるものからその奥にある本質を窺くことが好きで(月は天王星とも合)、同じものを見ながらも思っていることはかなり違うという意味になります(月としては金星のことをその場かぎりの楽しみ、金星としては月のことを純粋に楽しめていないと思っている)。

 というわけで、太陽・火星・冥王星のTスクエアなのですが、この軍神を抑えつける破壊神と、その軍神に抑えつけられる太陽という狂暴アスペクトです。

 まず、冥王星は蠍座30度なので、「ふだん抑えつけられているエネルギーの一時的な放縦すぎる解放による生命力の回復(マーク・エドモンド・ジョーンズの解釈)」に向き合うように火星に強いてくるのは冥王星です。冥王星は古く乾びて生命力を失ったものたちを壊して、穠然たる風雨のような神、その神はみずからを含めた古い神々に向けられた死した信仰の壇を薙ぎ払い雷を落として焼き払うことを軍神に強いています。

 軍神は獅子座28度 大きな木の枝にとまるたくさんの小鳥なので、百鳥争鳴、澎濞紛呈するような鳥たちの声が獅子座的に騒いでは鳴く様子です。獅子座だと一つの大きい鳥になりそうですが、末期度数だとより純化されて精神化されてくると多くの鳥たちがそれぞれ思うがままに鳴いている様子の雑遝して聚まっていることがそれぞれ楽しいという感覚になりそうです。

 それが軍神なので、そのようにして堂々たる威容をあらわしてみたいという衝動、あるいは獅子座的な大きな壮観を成してみたいと思いつつ、それらがすべて蠍座30度的なものを帯びているようにさせられるのが、火星・冥王星スクエアになりそうです。

 さらに、火星が太陽を制するようなスクエアになっているので、太陽は牡牛座的により感覚を洗練したりするのを望んでいても(あるいはみずから外に向けて動くつもりはないとしても)、獅子座火星によっていずれ外に向けてみせることを強いられる……という意味になります(牡牛座太陽はより即物的な感覚の洗練、蠍座冥王星はより感情的な意味を含めて再生と洗練を加えていくことを補い合っている)。

 獅子座には、ふつうはあまり蠍座的な渾沌(あるいは未秩序)に近づくことによる生命力の再生、もしくは牡牛座にはふつうは獅子座的に外にみせる形にしたい願望などは少ない(獅子座そのものには渾沌に近づく・牡牛座そのものには外にみせるという意味はほとんど語られない)けど、スクエアでつながる天体からそれを流し込まれて無理やりその性質を帯びさせられるという感じがあります。

 この太陽・火星・冥王星のアスペクトがかなり強く出ている記事は、個人的に「狂気の五部作」と呼んでいるエッセイ群です。

 何が狂っているかは、まぁとても暇な方は読んで頂ければ……と思うのですが、これについての個人的な事情を少し書いておくと、高校二年のときに『荘子』を読んで最も印象に残ったのが神巫季咸と壺丘子林の妖術比べで(「芸術と気の質感」に収録)、その描写をみたときに占いや魔術と芸術は本質的に何か通じるものがあるはず……と思い込んで、それを求めてさまざまな本を読んだのですがなかなかその事を書いている本に出会えず、そのうちに文学にも興味が移って、そうしているうちに文学も表面は文字だけど、その奥にはまだ形にならない渾沌たる質感のようなものがあるようで、それは或る時は音に現れていて(「感性と知性の形容詞」に収録)、或る時は作品の印象をあらわした批評の言葉に形を変えていて(「王闓運」「秀韻と雄節」に収録)、それらは同じ言葉を使っていても人によって全く異なる形に流れ込んでいることはやはり占術とも似ていて(「沼の入り口」)というのを、時代も分野も混ぜながら、それぞれを危うくバラけそうな形に並べて、みずからの感じることを書いていくという、かなり狂った記事群です。

 これは高校二年のときから、今年はもう27歳の終わりなので、10年かけて紆余曲折を経ながら作った記事でもあるのですが、この異様なまでに時間がかかって堂々数萬字……というのが固定宮らしくて、この危うさと無理やり結び付けて絡み合わせて捻れている感じがスクエアだなぁ……と思います。

 ということで、具体例が全部自分の例であれなのですが、スクエアは通常その星座に含まれない性質を、スクエアで結びついている天体から無理やり与えられて、それによって却って変則的な雰囲気になって(折衷は難しいけど)濁り・歪み・捻れの効いた雰囲気になるという記事でした。

 ちなみに、この写真は3月の終わりに三峯神社に行ったときの写真なのですが、この岩を木を無理やり繋げた感じがスクエアっぽい。「狂気の五部作」のアイキャッチ画像がどれも異界っぽくて、こんなところばかり行っているんだなぁ……と思う。ふつうの観光地も行ってますけど、写真はこういうのばかり撮っている気がする。

ABOUT ME
ぬぃ
占い・文学・ファッション・美術館などが好きです。 中国文学を学んだり、独特なスタイルのコーデを楽しんだり、詩を味わったり、文章書いたり……みたいな感じです。 ちなみに、太陽牡牛座、月山羊座、Asc天秤座(金星牡牛座)の月天王星海王星合だったりします笑。 易・中国文学などについてのブログも書いてます

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA