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晩清の怪物  王闓運

「ぬぃの中国文学ノート」にご来訪ありがとうございます。

 こちらの記事では、清代末期の王闓運(おうがいうん)についてになります。

 この王闓運というひとは、たぶん私が清代でもっとも好きな作者なので、ぜひ紹介させていただきたいです。

 その前にちょっと清代文学についてかいておくと、清の全盛期(康熙~乾隆帝のころ)には、いままでの名品をもとにしながら、本家よりもきれいで完璧なものがつくれるようになっていきます。

 ですが、清が傾いてくると、古い名品を再現をするだけのスタイルではなく、もっと実務的な話ができたり、衰世にいきている不穏さなどを書けるようなものがほしくなっていきます。なので、全盛期に完成した様式を、いろいろと混ぜたりくずしたり……というふうになります。

 もっとも、晩清(1840~1911。清代末期のこと)になると、かなり爛熟期になっているので、古い作品のコピーのなかで何を混ぜるか――くらいしか、個性がなくなってきます。

 そんなとき、晩清でひときわ大きい光をおびているのが、こちらの王闓運なのです。王闓運は六朝ふうのものを好んでいましたが、むしろ“王闓運らしさ”があちこちにでていて、すごく魅力的なのです。

 というわけで、いよいよ本題にいってみます。

どろどろと混ざりあう水

 まず、王闓運の作風については、よく「汪洋恣肆(大きくゆれて溢れるような波のような――)」といわれています。

 どちらかというと重々しくて力のある詩風なのですが、ちょっとどろどろとして濁ったような感じもあるなぁ……と私はおもっているので、そんな作品からのせてみます。

山霧の木々は蒼々として、千の家々は夕陽に小さく、雲は一つの白い水にたまっていて、山は街をのせて傾けり。

嵐樹晚蒼蒼、千家閉夕陽。雲低一水白、山占半城荒。(王闓運「發祁門雑詩二十二首 寄曾総督国藩、兼呈同行諸君子 其三」)

 なんか内側にごもごもと重いものが詰まっているような、ややごつい味わいですよね。

 とくに好きなのは「雲低一水白、山占半城荒」で、ふもとにある水が雲をまとったようにどろりとしていたり、山がぐねぐねがたがたと街の城壁をうねらせながら不規則につづいているところです(このねじ曲がった重厚感がすごく美しいのです)

 こんなふうに風景がごてごてと重く絡まりながら、太くねじれている質感は、王闓運の作品にいつも形を変えながらでてきます。ちなみに、六朝ふうを好んでいるだけあって、五言古詩がすごくおしゃれです。

巨魚は大きい壑(谷)を喜び、積まれた水はいつまでも舟遊びをするに良く、千里の池がなければ、孤舟の翔ぶごとき楽しみもなし。

帆を揚げてめぐる風に従いて、浪はざらざらとして東より寄せるので、舲(舟)を横たえて往き来すれば、帆を転じるごとに水面の光は流れけり。軽き雲は上にてひらひらと散り、遠くより飆(風)が大きく茫々とふけば、碧のさざなみは遠くにて煙霞にまじり、夕陽の色はぼんやりと滲むばかりなり

巴(四川)の丘はのろのろと翠の蘋(浮草)だらけで、波が立ちては揺れもせず、流れに随いて眺めつくせば、黄帝の廟に詣でる暇もなく、からりとして心の開け散るごとくして、秋の日のまだ傾かぬうちにいれば、さらに遊びてどこにいくのか――。ただ古き世の湖をみるのみ。

巨魚喜大壑、積水便修航。不有千里池、豈恣孤舟翔。揚帆順回風、激浪逆東行。横舲往復来、轉帆忽飛光。軽雲上靡靡、長飆浩茫茫。碧漣遠為煙、夕陰秀無央。巴丘延翠蘋、波湧無低昂。随流縦所如、未暇従軒皇。寂寥余懐曠、始見秋日長。行行何所期、攬古慰羈傷。(王闓運「方舟横洞庭」)

 王闓運らしさの塊ですね。

 まず「碧のさざなみは遠くにて煙霞にまじり(碧漣遠為煙)」「巴の丘はのろのろと緑の浮草だらけ(巴丘延翠蘋)」みたいなところが、波と霞だったり丘と浮草がいつしか混ざっていて、大きくどろりと溶けたような味わいです。

 ですが、もうひとつ面白いのは「揚帆順回風(風)」「長飆浩茫茫(風と水面)」「轉帆忽飛光(水面と光)」「碧漣遠為煙(水面の碧と霞)」「巴丘延翠蘋(丘と水面の碧)」……みたいに、少しずつ組みあわせを変えながら、なんども水面や風などがでてきます。

 これがぐねぐねと回りながら大きく流れている水っぽくないですか。もはや王闓運の感性がこういう形になっているのかも……と思えてくるような作品です。

 あと、終わり方もすごく王闓運らしいです。「さらに遊びてどこにいくのか――。ただ古き世の湖をみるのみ(行行何所期、攬古慰羈傷)」みたいに、どんなに舟遊びをしても収まらない感情が鬱屈してぼこぼこと涌いているようなのが、すごく好みです。

 なんか、いい意味でごつごつしているというか、あまり上品すぎないというか、激しく荒い気が入っているのが魅力的です。

ごてごてごぼごぼ

 すごく好きな作者なので、あと二つくらい作品を紹介させてください(笑)

重ねた帷のうちに寒き風を聞き、しばしばのろりと暖くして雪の降るを知る。暁にはりんとして心の白く澄むようで、簾を上げては庭も広く清められたり――。しゃんとして白沙に積もり、そほりそろりとして松檜を飾りたれば、水は暗くして低い嶼(中洲)に翳り、山は明るくして峰ごとに欠けた心地もする

あちらには白壁の澄んで耀き、近くには林の亭が立っていて、氷を裂いてさりさりと小さき舠(舟)を渡せば、流れる澌(薄氷)もさらさら折れる音のして、市井を離れたところに住むのを感じながら、訪ね来る人のいないことを憂いて、路を掃きて客を待てば、玉の枝はきしきしと曲がっているのでした。

重帷覆寒風、驟暖知已雪。曙朗瑩心神、褰開曠超越。沾灑積庭除、豊茸悦松栝。水暗三潭昏、山明半峰缺。遠増垣堊麗、近見林亭出。敲冰渡軽舠、流澌響清洌。已知塵市遠、反畏人蹤絶。掃径如可期、瑤芝冀能掇。(王闓運「三潭夜雪晨遊高荘」)

 これが晩年のほうにつくられた詩なのですが、老いをまったく感じさせない重苦しい美しさがあります。

 私としては、とくに「流澌響清洌」がすごい好きです。まず、五文字のなかで四つがさんずいです(笑)

 これだけでも薄い氷の張っている川を、さりさりしらしらと渡っていく小舟の様子がなんとなくみえてきます。しかも、中国語でいうと音が「liu si xiang qing lie」みたいに、すごくさらさらと氷が折れながら舟に裂かれていく感じがすごくでています。

 ふつうなら、四つもさんずいの字を並べたらバランスが悪くなりそうなのに、あえて大きく太くうねるような感じにしてあって、むしろ“重厚でごてごてと太くてきらびやか”なのです(こんなタイプの美しさがこの世にあるのか……と衝撃でした)

 あと、「山は明るくして峰ごとに欠けた心地もする(山明半峰缺)」も好きです。こちらは、雪をおびて明るい山が、どこかがたがたと崩れたような形になっている――みたいに、わずかに不穏な雰囲気が入っています。

 こういうふうに、たまに不調和なものが少し含まれていると、なんとなく重く引きずった濁りがあって、むしろ印象に残る――みたいな気がします(これは私の好みかも)

わずかに雪のふりて綿入れの衣を着て、深き山にてさらに単衣の上衣を重ねれば、月は春のごとく暖かくして、燈は曉の光がさすのを嫌えり。人は静かにして山谷に声起りて、天は遠くして夢にも人に会わず、眠らずしてまた憶うこと無く、さらさらと心は安らかなり

小雪猶衣夾、深山復掛単。月如春夜暖、燈避曉光残。人静空声湧、天長遠夢難。無眠復無憶、蕭灑得心安。(王闓運「仲冬還山荘」)

 ごろごろと感情が塊りになっています(好きすぎる)

「人は静かにして山谷に声起りて(人静空声湧)」って、ふもとの街は眠ったようなときに、一人寝られずに夜通し起きていて、おもわず叫びたくなるような鬱屈した感情が涌き出して抑えきれなくなっていることです。

 しかも、その後の「眠らずしてまた憶うこと無く、さらさらと心は安らかなり(無眠復無憶、蕭灑得心安)」がすごいです。そんなふうに鬱屈しているのに、その想いを抑え込んで無理やり“心は安らかなり――”なんて、蓋をして無理やり終わせています……。

 この溢れ出る感情が、行き場を失って、きらきらと太くねじれてどろどろと重苦しく濁っているのが、すごく魅力的じゃないですか(最後の一首なんて、ふて寝しているだけなのに、この美しさです笑)

 というわけで、私が好きな王闓運の紹介でした。この魅力を感じていただける人が、少しでも増えていたらすごく嬉しいです。お読みいただきありがとうございました。

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ぬぃ
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