「ぬぃの中国文学ノート」にご来訪ありがとうございます。
こちらの記事では、北宋の詞のなかでも、もっとも有名な周邦彦についてかいていきます。
ほとんどの方にとっては、周邦彦(しゅうほうげん)って誰……という状態だとおもうのですが、宋代の詞は周邦彦において、もっとも複雑にして優美な姿になっていくので、ぜひ紹介させていただきたいです。
ちなみに、詞というのは、もともと妓楼の曲の歌詞だったのですが、蘇軾がかなり複雑な技巧をいれてつくるようになり、周邦彦はさらにそれを洗練させた人になります(蘇軾よりちょっとあとの、北宋末期の人になります)

というわけで、さっそく紹介していきます。
風景の繊細さ
まず、周邦彦は風景描写がそれまでの人をくらべて、すごく繊細になります。
銀の川はめぐること三千曲――、浮かぶ鴨や立つ鷺にみどりの波が濡らします。帰る舟はどこかといえば、夕陽の楼よりみるのです。 天は梅の早く咲くのを憎んでか、枝を雪がつつんだので、深い欄より簾をあげれば、江の上にはしんしんと雪がふるのです。
銀河宛轉三千曲。浴鳬飛鷺澄波緑。何処是帰舟。夕陽江上楼。 天憎梅浪發。故下封枝雪。深院捲簾看。応憐江上寒。(周邦彦「菩薩蛮」)
雪のふっている川を「銀河(天の川)」といっているのが、すごく新しいです(雪のふって銀色に輝くようなときを選んでいるのが、ほんとうに「銀の川」です)
あと、周邦彦の詞は、微妙な色のまざり合いがすごく練り上げられています。雪の白銀、波のわずかな緑、ぼんやりと濁った夕陽、濡れたような梅のピンクなど、すごく細やかなひとときの色を描いています。
この短い中でも、周邦彦がすごく繊細な感覚で、風景を感じ取っていたのかがみえる気がします。というわけで、今度はちょっとひねりの利いたものをいきます。
あえて読みづらい
どうでもいいのですが、私がはじめて周邦彦を読んだときの感想は「すごく読みづらい」でした(笑)今ならその理由がわかるのですが、この作品はいかにも周邦彦らしい技巧と癖がきいています。
妓女たちの去って、ひとりでゆるい堤の上を歩いていると、春の草はどこか烟を帯びたようで曲がった水に迷う心地のするのですが、暗い雲が西にあって、まだ九条の大通りの泥は乾いているのでした。 桃の下には、春が過ぎてもまだ草が深く、塀にそって花をみながら路を曲がるのですが、柳の蔭にて馬に乗ればうぐいすの声ばかりして、どこをみても落ち着かず――。
游妓散。独自繞回堤。芳草懐烟迷水曲、密雲銜雨暗城西。九陌未沾泥。 桃李下、春晚未成蹊。牆外見花尋路轉、柳陰行馬過鶯啼。無処不凄凄。(周邦彦「望江南・春游」)
この作品は、すでにある詩の一部などを取り入れながらつくられています(そういう技法は、蘇軾あたりから始まります)。ですが、ここではあえて「九陌」について書いていきます。
この「九陌」は、九つの陌(はく。路のこと)という意味で、漢代の長安の九つの大きい路のことでした。ですが、その周りが曇ったような草や濃い灰色の雲などの微細な色で固められているのに、この「九陌」だけ古くさくないですか(笑)
なんか「九陌」だけ土がむき出しになっていて、砂っぽいというか、古めかしくて不調和です。ですが、周邦彦はあえてこういう語をいれてしまいます。
春の草が茂っている中で、土がでている路は「九陌」みたいな古くさいイメージのほうが似合います。あえて古い語を選んでいるのは、その後に「未沾泥(まだ泥は乾いているのです)」みたいな、すごく土っぽさを感じる雰囲気を匂わせているのでもわかります。
こういうふうに、妙に古くさい語が入っていると、その取り合わせの不調和さが、かえって不思議な引っかかりになって、読み終わったあとに印象に残ります。
あと「独自繞回堤、芳草懐烟迷水曲(ひとりで堤の上を歩いていると、春の草はどこか烟を帯びたようで曲がった水に迷う心地がする)」も、少し凝っています。
こちらは、「回堤・水曲」のような曲がっている系の字が二回もでてきて、なんども同じことを読まされている感じが、いかにもぐねぐねとした堤の上を歩いている雰囲気になっています。こういうすごく細かい印象が練りあげられています。
というわけで、周邦彦の風景描写は、文字の印象や引っかかり、わざとグダグダさせるなど、ふつうではマイナスになることも、かなり器用に活かしています(これほど上手いひとは見たことがないです笑)
ぐねぐねと長い枝だらけ
そんなわけで、最後にめちゃくちゃむずかしい傑作を紹介しておきます。
衣を正して酒に臨むに、遠いたびのうちに、日々が過ぎていくのがどこか空しいのです。春を留めたいと思っても、春は鳥のように過ぎていきます。一たび去って跡も残らず、花がどこにあるのかと問えば、昨夜の風雨が、楚王の後宮を散らしたようなのでした。
螺鈿のかんざしの落ちた場所には湿った香りがするようで、ひらひらと桃の道に落ちて、はらはらと柳の路に舞うのです。こんなとき、私はなにを惜しんでいるのかわからず、ただ蜂や蝶ばかりが、窓を叩くほどにざわめくのです。
東の園はひっそりとして、のろのろに緑が濃くなっていく毎日ですが、きらめく庭の奥を静かに歩けば、息をつきたくなるようで――、長い枝はわざと私をとどめて、衣を引いて二人で遊ぶ心地もして、離れるのがつらいのでした。
小さな花びらをひとつ拾ったのですが、それは簪のきらきらした紅碧の房飾りにも似ず、さらさら落ちて――、流れる先には、潮があふれておりますから、わずかな紅に想いを寄せても、きっと深い海の底――。
正単衣試酒、恨客里、光陰虚擲。願春暫留、春帰如過翼。一去無跡。為問花何在、夜来風雨、葬楚宮傾国。釵鈿墮処遺香澤。乱点桃蹊、軽翻柳陌。多情為誰追惜。但蜂媒蝶使、時叩窓隔。 東園岑寂。漸蒙籠暗碧。静繞珍叢底、成嘆息。長條故惹行客。似牽衣待話、別情無極。殘英小、強簪巾幘。終不似一朵、釵頭顫裊、向人欹側。漂流処、莫趁潮汐。恐断紅、尚有相思字、何由見得。(周邦彦「六醜・薔薇謝後作」)
これが何のことを詠んでいるのかといえば「薔薇が散ってしまったこと」についてなのです(初めてみると完全に謎ですよね)
ですが、薔薇はほとんど出てきません。むしろ、幹(主旨)を隠すほどに枝がたくさん伸びすぎていて、しかもその枝から別の枝がでてきていたりします。なので、目立った枝について解説してみます。
まず、「為問花何在、夜来風雨、葬楚宮傾国、釵鈿墮処遺香澤(花がどこにあるのかと問えば、昨夜の風雨が、楚王の後宮を散らしたようなのでした。螺鈿のかんざしの落ちた場所には湿った香りがするようで)」がすごく大きい枝です。
「花がどこにあるのかと問えば、昨夜の風雨が……」までは、薔薇についてです。「楚王の後宮を散らしたようなので――」は、後宮のような薔薇の色です。あえて「楚」を選んでいるのは、南方の楚はどこか湿った感じがあるので、雨のあとに似合うからだとおもいます。
このあたりまでは、まぁよくあるのですが、「螺鈿のかんざしの落ちた場所には湿った香りがするようで」は、後宮の風景から思いついた句になります(薔薇はほとんどつながりが無いです)
でも、薔薇・後宮・後宮の簪……みたいに並べられると、なんとなく雰囲気がつながって読めてしまいます。「湿った香り」は薔薇の花びらの香りっぽくもあるので、最後にゆるく戻るのがおしゃれです。
(こういう技をまったく違うスタイルでつかう人には、前漢の王褒がいます)

もうひとつ、大きい枝は「漂流処、莫趁潮汐、恐断紅、尚有相思字、何由見得(流れる先には、潮があふれておりますから、わずかな紅に想いを寄せても、きっと深い海の底――)」です。
こちらは、唐のころに後宮につながる溝から、紅葉を詠んだ詩がながれてきて……という話を原案にしています。もっとも、ここでは紅葉ではなく薔薇なので、水に浮かんだ紅葉と薔薇がなんとなく似ている――みたいな感覚です。
ですが、周邦彦らしさはここからです。そんな薔薇に想いを寄せた詩をつくって流しても、その詩は海までいくとあふれる潮にのまれているのだから、二度と会えないのに――みたいになります(散った薔薇を惜しんでも、二度とみられないのに……っぽいことをいっています)
あと、もとの話では、海までいくと……みたいなことは含まれてないので、このあたりは周邦彦の連想になります。
こんな感じで、雰囲気が似ているものがあったら、そこからさらに枝をのばすように連想をひろげて風景をかいていくのが周邦彦の魅力です(なので、詞の風景は、周邦彦によってすごく多彩なものになりました)
というわけで、北宋の詞の優美な技巧家として、周邦彦を紹介してみました(周邦彦って、その魅力を伝えるのがすごく難しいんですよね笑)ここまで読んでくださった方は、本当にありがとうございました。